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2006年4月28日(金曜日)

川崎徳次氏(元西鉄監督)が胆管がんのため死去

カテゴリー: - touse @ 01時29分52秒

川崎 徳次氏(かわさき・とくじ=元プロ野球西鉄監督)25日午後0時16分、胆管がんのため福岡県久留米市の病院で死去、84歳。

佐賀県出身。40年に南海に入団。戦後の46年、巨人でプロ球界に復帰。50年、創設された西鉄に中核選手として移籍した。2リーグ分立後の53年には24勝15敗、防御率1・98でパ・リーグの最多勝と最優秀防御率の2冠を獲得。57年に引退するまで通算188勝156敗の成績を残した。 巨人時代の49年4月の大映戦では、先発し8本塁打を浴びたが、自ら満塁弾を含む3本塁打で9打点を挙げ、15−13で完投勝利した。被本塁打8と、投手の9打点はプロ野球記録で、投手の3本塁打は同タイ記録として今に残る。 現役引退後は西鉄のヘッドコーチとして三原脩監督を支え、60年から2年間監督を務めた。67年には阪神の投手コーチも務めた。


2006年4月6日(木曜日)

アイ高野さん(ザ・カーナビーツ)が心不全のため死去

カテゴリー: - touse @ 02時01分14秒

1960〜70年代に一世を風靡した、グループサウンズ「ザ・カーナビーツ」「ザ・ゴールデン・カップス」や「クリエーション」などのバンドでドラマー兼ボーカルとして活躍したアイ高野さんが1日に急性心不全のため死去していたことが3日、分かった。55歳だった。高野さんは先月21日に体調の不良を訴え入院。一度は持ち直したものの容体が急変し、帰らぬ人となった。この日夜には、都内で通夜が営まれ、デイヴ平尾(60)らGS仲間たちが悲しみの対面を果たした。
 好きさ、好きさ、好きさ…おまえのすべてぇ〜。キュートなルックスにハイトーンボイス、そしてドラム・スティックを観客に差し向けるパフォーマンスで、若者を熱狂させた、あの高野さんが逝った。

本  名 高野元成
生年月日 1951年1月12日
出 身 地 東京都
サ イ ズ 身長165cm 体重 58kg
趣  味 ローラースケート・読書

昭和41年 ザ・カーナビーツでデビュー「好きさ好きさ好きさ」大ヒット
      解散後、ゴールデンカップスに参加
昭和48年 ソロデビュー
昭和53年 NHK連続テレビ小説「わたしは海」
      銀河ドラマ「欲しがりません勝つまでは」出演
昭和55年 クリエーションに参加
昭和56年 「ロンリーハート」大ヒット 全国ツアー・香港ツアーを行う
昭和58年 ANB系アニメ「愛してナイト」挿入歌を歌う
昭和59年 大阪ライブハウス「カーナビーツ」のサウンドコーディネーターを勤める
昭和60年 原宿ミュージカル「傷だらけの天使」出演
      テアトルインキャビン「ツインラブ」出演
昭和61年 「PAN SCHOOL OF MUSIC」講師(校長ミッキー吉野)
昭和63年 菊南温泉観光ホテル「GSサマーカーニバル」第1回開催 今年で18回目
平成元年  「タイガースメモリアルクラブバンド」一万人コンサートに参加
平成2年  ブロードウェー・ミュージカル「スターマイツ」出演
平成3年  キャノン・オートボーイ CF出演
平成14年 RAYS(力也・アイ高野・東ユースケ)結成
      サラリーマンの応援歌「負けないぜ!!」発売


2006年4月2日(日曜日)

松本竜助さん(元タレント)が脳出血のため死去

カテゴリー: - touse @ 12時22分35秒

1980年代の漫才ブームで活躍した人気コンビ「島田紳助・松本竜介」の松本竜助(本名・松本稔)さんが1日午前5時2分、大阪市内の病院で、高血圧による脳出血のため死去した。49歳だった。元相方の島田紳助(50)とは、以前から50歳になれば漫才をしようと約束。本人も楽しみにしていたが、4月6日の50歳の誕生日を待たずに帰らぬ人となった。同日、都内で会見した紳助は「戦友でした」と涙を流した。
 元所属事務所の吉本興業によると、竜助さんは3月31日まで血圧が安定していたが、同日夜に熱が出て心拍数が上がり、けいれんの症状も見られた。1日午前5時過ぎ、医療機器のアラームが鳴ったときには、すでに心肺停止状態だったという。病室で妻の妃加子さんと長女がみとった。
 悲劇が襲ったのは3月22日夜だった。竜助さんは大阪市内の勤務先で頭痛を訴えて意識を失い緊急入院したが、重体となった。当初は手を握ると反応がみられていたが、同27日ごろから反応がなくなっていたという。
 竜助さんは77年3月に漫才コンビ「島田紳助・松本竜介」でデビュー。リーゼントにつなぎの衣装、テンポの速いしゃべくりによる「ツッパリ漫才」で一世を風靡(ふうび)。漫才ブームの立役者となった。人気番組「オレたちひょうきん族」ではビートきよし、島田洋八と「うなずきトリオ」を結成。発売したレコード「うなずきマーチ」がヒットした。
 85年にコンビを解消してからはVシネマなどに出演していたが徐々に表舞台から遠ざかっていった。96年ごろに吉本興業を離れた後、居酒屋、喫茶店、アダルトビデオ制作会社などを経営したが失敗。約1億3000万円の負債を抱え、98年2月に自己破産。その後は芸能事務所に所属しタレント活動を続ける一方、4年ほど前からは大阪市内の風俗案内店の責任者として働いたりしていた。復帰を夢見て 親しい知人によると、竜助さんはここ数年、ドラマなどの役者業が多かったが「お笑い」に対する熱い思いは変わらず、若手お笑いタレントが出演する番組をすべてチェックし、相方も探すなど、復帰を夢見ていたという。
 また、元相方の紳助と「50歳になったら、一緒に漫才を」と約束しており、周囲にもうれしそうに話すなど心待ちにしていたという。しかし、6日の50歳の誕生日を待たずに天国に旅立ってしまった。

◆松本 竜助(まつもと・りゅうすけ)本名・松本稔(みのる)。1956年4月6日、徳島県生まれ。49歳。77年3月に漫才コンビ「島田紳助・松本竜介」でデビュー。80年の漫才ブームで全国区の人気に。「第15回上方漫才大賞」新人賞(80年)、「第1回花王名人大賞」新人賞(81年)などを受賞。83年の年頭に「竜介」から「竜助」に改名。02年秋、長男・安史さん(24)とのコンビ「松本一家」で「M−1グランプリ」に挑戦したが、予選落ちした。


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