パートナーサイト
遺品整理、引越、かたづけ、リサイクル、なんでも頼める! キーパーズ
現代供養.COM
冠婚葬祭ネット
スポンサードリンク
お問い合わせ
PR
オンライン状況
33 人のユーザが現在オンラインです。 (4 人のユーザが 冠婚葬祭トピックス を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 33

もっと...
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
冠婚葬祭ネット-
 
遺骨ペンダント
冠婚葬祭ネット---
 
遺骨からダイヤモンド
月別過去ログ

2006年7月31日(月曜日)

ジャン・レノ、モデルの恋人と挙式

カテゴリー: - touse @ 11時29分13秒

「レオン」「ダ・ヴィンチ・コード」などでおなじみの人気フランス人俳優ジャン・レノが今週末、長年の恋人でモデルのゾフィア・ボルッカと結婚式を挙げる。式はマルセイユ郊外のボー・ド・プロバンスにて執り行われ、証人として、フランスの伝説的シンガーのジョニー・アリデイと、フランス内務大臣ニコラ・サルコジが出席するとのこと。ジャンにとっては3度目の結婚となる。式が執り行われるボー・ド・プロバンスの市長は、「ジャンは僕の友達で、ここに来るときはいつも会いに来てくれる。この間も一緒にワールドカップも見たんだ」と喜びを語っている。


2006年7月30日(日曜日)

長谷川良平氏(広島元監督)が死去

カテゴリー: - touse @ 18時50分26秒

広島の草創期を支えた「小さな大投手」が亡くなった。通算197勝を挙げ、3年指揮をとった元広島監督の長谷川良平氏(はせがわ・りょうへい)が06年7月29日午前11時30分、肺炎のため広島市内の病院で死去。

広島の草創期を支えた「小さな大投手」が天国へ旅立った。広島松田元(はじめ)オーナー(55)は「非常に残念。いつも投手の気持ちを忘れない方でした」と話した。この日、横浜戦(広島)の試合前に1分間の黙とうが行われた。

長谷川氏は50年(昭25)に広島入団。身長167センチと小柄だが、右サイドスローから切れ味鋭いシュートを武器に活躍。51年、チーム32勝の半分以上の17勝を挙げ、勝率3割を割れば連盟から実質上の強制解散を迫られる危機を救った。その年のオフに中日が引き抜きを画策した「長谷川問題」が起き、3か月間チームを離れたが、最後はコミッショナー裁定で広島残留。8年連続で2けた勝利。55年にはライバル金田正一(国鉄)の29勝を上回る30勝で最多勝投手。球宴にも7度出場した。

肩を痛めて63年に引退。コーチを経て65年のシーズン途中に広島の監督就任、3年間指揮を執った。その後中日のコーチも務めた。日刊スポーツ評論家やテレビ解説で活躍。01年には野球殿堂入りも果たしている。

◆長谷川良平(はせがわ・りょうへい)
1930年(昭5)3月25日、愛知県生まれ。半田商工から社会人を経て50年に広島にテスト入団。167センチと小柄ながらシュートを武器に活躍し、1年目からいきなり15勝を記録。55年には30勝17敗で最多勝を獲得するなど、20勝以上を4度マーク。実働14年間で621試合に登板し197勝208敗、防御率2・65。65年のシーズン途中から広島の監督へ就任し、67年まで指揮。01年に野球殿堂入り。

2006年7月25日(火曜日)

日系俳優マコ・イワマツさん死去

カテゴリー: - touse @ 01時14分04秒

米映画界で活躍し、ハリウッドを代表する日系人俳優、マコ・イワマツ(本名・岩松信=いわまつ・まこと)さんが死去した。72歳。神戸市出身。

マコさんの父は、戦前のプロレタリア画家で絵本作家の八島太郎。1939年に両親が渡米し、戦中は“スパイの子”と後ろ指を指される生活だった。戦後、15歳で渡米。ニューヨークの工科大で建築家を目指していたが、アルバイトでブロードウエーの仕事をしたのがきっかけで、演劇に目覚めた。従軍後、現地の演劇学校に学び、映画俳優としてデビューした。

スティーブ・マックイーンと共演した「砲艦サンパブロ」(1966年、ロバート・ワイズ監督)では、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、脚光を浴びた。また、舞台でも活躍し、主演舞台「太平洋序曲」(76年)では名誉あるトニー賞にノミネートされた。

近年は、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」「パール・ハーバー」篠田正浩監督の「梟の城」などの話題作にも出演。ハリウッドではアジア系俳優と「イースト・ウエスト・プレーヤーズ(東西劇団)」を結成し、白人の紋切り型のアジア人像を打ち破るための活動を続けた。

◆マコ・イワマツ(本名・岩松信=いわまつ・まこと)
1933年神戸出身。本名・岩松信。15歳の時に渡米、戦後にアメリカの永住権を取得した最初の日本人でもある。ダスティン・ホフマンと同期のパサディナ演劇学校で演劇を学ぶ。映画『砲艦サンパブロ』で、アカデミー賞助演男優賞にノミネートされる。


2006年7月14日(金曜日)

宮田征典氏(元プロ野球投手)が死去

カテゴリー: - touse @ 18時24分46秒

巨人にまた悲しみに包まれた。現役時代にリリーフ投手の代名詞“8時半の男”と呼ばれ、引退後も巨人など4球団で投手コーチを務めた宮田征典(みやた・ゆきのり)氏が06年7月13日午後2時11分、肝不全のため群馬県前橋市内の病院で死去した。66歳。65年にリリーフ投手として初めて20勝を達成。登板時刻が午後8時半前後だったことから“8時半の男”の異名が付けられ、巨人9連覇の初年度を支えた。75年に巨人コーチとなって以降、01年に巨人を退団するまでに4球団で指導者としても活躍。

8時半の男 巨人のV9がスタートした65年、金田、城之内、中村稔ら巨人の先発投手は7、8回につかまるケースが多かった。投手分業制が確立されていない当時はストッパーなどおらず、川上監督は宮田を説得しリリーフの切り札として起用。夏場の6〜8月にはチーム62試合のうち36試合に登板するなど、宮田はフル回転。宮田が登板するのが7回以降でちょうど8時半ごろであったことから、「8時半の男」という異名がついた。65年の宮田は69試合に登板して20勝5敗、防御率2・07。20勝のうち19勝をリリーフで挙げ、これはシーズン最多リリーフ勝利のセ・リーグ記録。当時はセーブのルールがなかったが、現在の規定に当てはめると22セーブを記録していた。

◆宮田征典(みやた・ゆきのり)
1939年(昭和14年)11月4日、群馬県前橋市生まれ。前橋高から日大を経て、62年に巨人入団。主にリリーフ投手として活躍した。特に65年は20勝(5敗)をマークし、9連覇の最初の優勝に貢献した。登板時の時刻が午後8時半前後だったことから「8時半の男」の異名を取った。通算成績は在籍8年で45勝30敗、防御率2・63。現役引退後は巨人、日本ハム、西武、中日のコーチを歴任した。

2006年7月12日(水曜日)

甲斐智枝美さん(歌手・女優)が心不全のため死去

カテゴリー: - touse @ 22時08分58秒

80年代の人気アイドルで、歌手、女優として活躍した甲斐智枝美さん(かい・ちえみ=本名・長谷部(はせべ)智枝美)が、06年7月10日に千葉県習志野市内の自宅で、心不全のため亡くなっていたことが11日、分かった。43歳。

松田聖子と同期の80年デビューで、柏原芳恵、河合奈保子らとグラビア雑誌を何度となく飾った往年の人気アイドルが、自宅で急死した。この日夜、習志野市内で営まれた通夜には、親族らが出席。90年に結婚した夫でスタジオミュージシャンの長谷部徹氏(43)は「動揺しています。でも、2人の息子と生きていかなければいけません。今はそっとしておいてください。申し訳ありません」と話すのが精いっぱいだった。

関係者によると、10日午前、家族の通報で智枝美さんの自宅に救急車が駆けつけたが、すでに死亡しており病院に搬送されることはなかった。同日午後、遺体は1度習志野署に運ばれ検視が行われた。

智枝美さんは79年、日本テレビ「スター誕生!」で、29代グランドチャンピオンを獲得。80年、ホリプロからデビューした。事務所の先輩のポスト山口百恵として期待され、シングル曲「スタア」を発売。歌手と同時に女優、タレント業も並行させ、アイドル雑誌の表紙を何度も飾った。

「野々村病院物語」(81年)「高校聖夫婦」(83年)など、人気ドラマにも立て続けに出演。87年には、日本テレビ系の連続ドラマ「見上げればいつも青空」で、美容室経営のヒロインに抜てきされた。

アイドルから女優へ転身も順調だったが、90年10月、堀越高校の同級生だった長谷部氏と結婚。91年10月に第1子を出産するなど2人の男の子に恵まれた。結婚後、芸能活動は一切控え、生花店を営んでいたとの情報もある。葬儀場には家族4人で撮影された写真が十数点飾られていた。

智枝美さんがデビューした80年のアイドル同期生には松田聖子を筆頭に、河合奈保子、柏原芳恵、岩崎良美、男性では田原俊彦がいる。翌81年は松本伊代、伊藤つかさ、近藤真彦ら、82年は小泉今日子、中森明菜、原田知世、早見優、堀ちえみ、石川秀美が続いた。人気実力ともトップだった山口百恵が引退した80年以降、「ポスト百恵」の座をめぐり激しい競争が始まった。70年代後半はニューミュージックに押されていたヒットチャートも同年を境にアイドル中心に。活動の幅も多様化し、歌手、女優、グラビアにアイドルが進出。印象に残るタレントが多かった。

◆甲斐智枝美
1963年(昭38)6月16日、福岡県大牟田市生まれ。堀越学園卒。79年、オーディション番組「スター誕生!」で第29代グランドチャンピオンとなり芸能界入り。80年にシングル「スタア」で歌手デビュー。ドラマ「GOGO!チアガール」「野々村病院物語」など女優でも活躍。90年、ドラマー長谷部徹氏と結婚し、芸能界を引退。


2006年7月3日(月曜日)

橋本龍太郎元首相が多臓器不全、敗血症性ショックのため死去

カテゴリー: - touse @ 00時04分45秒

橋本龍太郎(はしもと・りゅうたろう)元首相が06年7月1日、多臓器不全、敗血症性ショックのため、東京・新宿の国立国際医療センターで死去した。68歳。先月4日、腸管虚血と診断され、腸の大部分を切除する手術を受け入院していた。早くから「自民党のプリンス」と呼ばれ、首相に上り詰めたが、経済政策の失言による参院選惨敗で退任。最後は日本歯科医師連盟(日歯連)からの1億円闇献金事件で政界を引退した。波乱の政治家人生だった。

 6月4日、腸への血流量が低下する「腸管虚血」と診断され、翌5日に腸の大部分を切除する手術を受けた橋本氏は、手術後、1度も意識を回復することなく、息を引き取った。
 二男の岳(がく)衆院議員(32)によると、手術前「おれが講演をやらなきゃ」と話したのが最後の言葉だった。遺体は病理解剖された。弟の橋本大二郎高知県知事は「兄は医療や厚生行政に長く携わった。日本の医療に貢献するメッセージを残してくれた」。「私人としての(家族との)暮らしが少なく、最後は自分の手で送ってあげたい」という久美子夫人ら家族の意向で葬儀、告別式は近親者だけで行う。
 「自民党のプリンス」として頭角を現し、蔵相や幹事長など要職を歴任した橋本氏は、甘いマスクに流し目で女性から「龍さま」と慕われた。剣道着姿の「龍ちゃん人形」や「龍ちゃんプリクラ」も設置される人気だったが、節目では女性や人事、金の問題につまずいた。

 89年、総裁選出馬を期待されたが、宇野政権の幹事長として大敗した参院選の責任と、女性問題が重なって見送った。
 96年1月、首相の座に就いたが、97年、内閣の最重要課題だった行革担当のトップ総務庁長官に、ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行氏を起用。世論の集中砲火を浴びて10日余りで更迭した。中国政府の女性通訳との関係も報じられ、女性が情報部員とされたため「国家機密にかかわる問題」と、野党が衆院予算委員会で追及する事態になった。

 98年の参院選前には恒久減税の実施に言及しながら、選挙戦で「言っていない」と迷走。株価は下落し、自民党は惨敗。引責辞任に追い込まれた。
 表舞台への復活を懸けて01年の総裁選に出馬したが、小泉純一郎首相に大差で敗北。04年には日歯連からの1億円献金隠し疑惑が発覚し、派閥会長を辞任した。政治倫理審査会では「(記憶はないが)事実なのだろうと思う」と弁明し、与野党から強く批判された。地盤を岳氏に譲り、昨年8月、追われるように政界を去った。「どうも純ちゃん(小泉首相)との一戦以降、負け戦が続いているな」と自嘲(じちょう)気味に漏らしていたという。


23 queries. 0.058 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress