映画「男はつらいよ」シリーズの常連で、ドラマの脇役として活躍したコメディアンの関敬六さん(せき・けいろく、本名関谷敬二=せきや・けいじ)が06年8月23日午前2時8分、肺炎のため都内の病院で死去した。78歳。故渥美清さんと40年来の親友で、「男は−」では寅さんのテキ屋仲間として、おなじみだった。昨年9月に血液のがん「骨髄異形成症候群(MDS)」と診断されたが、今年3月まで東京・浅草の木馬亭で軽演劇の舞台に立っていた。
親友渥美清さんが亡くなったのは96年8月4日。それから10年、関さんは同じ夏に親友が待つ天国に旅立った。
都内の自宅で取材に応じた恵子夫人(67)によると、関さんは3月まで舞台に出ていた。浅草・木馬亭を拠点にした軽演劇「お笑い浅草21世紀」に98年から参加し、毎月出演した。昨年9月に血液がんの一種MDSと診断され、1カ月間入院。「仕事がしたい」との関さんの意向もあって、本人への告知や抗がん治療はせず、12月に舞台に復帰。ライフワークの曲「浅草の唄」を毎回披露した。
3月の舞台では体がフラフラし、簡単なせりふを間違えながらも懸命に務めたが、直後に入院。6月初めに一時退院したが、同11日に再入院した。10月の復帰を目指していたが、今月初めから意識が混濁。22日深夜に容体が急変した。恵子さんは「趣味は仕事。本当に仕事が好きな人でした」と振り返った。
栃木生まれだが、第2の故郷が浅草だった。復員後、税務署に半年勤務したが、コメディアンを志して52年に浅草でエノケン劇団に入団。浅草のストリップ劇場、フランス座などで芸を磨き、59年にフランス座同期の渥美さん、谷幹一さんと「スリーポケッツ」を結成。丸顔の愛きょうある風ぼうで親しまれ、熱演型コメディアンとして頭角を現した。
渥美さんの脱退で解散した60年代には映画に進出。80年から渥美さん主演「男はつらいよ」シリーズの常連となり、寅さんのテキ屋仲間役で存在感を示した。テレビでも「てなもんや三度笠」「天うらら」に出演し、アニメ「宇宙忍者ゴームズ」の吹き替えのせりふ「ムッシュ メラメラ〜」は子供の流行語になった。
75年に「浅草の喜劇の灯を消すな」と関敬六劇団を結成。16年間活動し、91年に芸術祭優秀賞を受けた。長男は敬六劇団に、二男は欽ちゃん劇団に一時参加したが、現在は会社員をしているという。渥美さんの数少ない親友として「寅さんとの想い出と秘話」と題した講演会を行い、長年の交友をつづった著書「さらば友よ」も出版した。
浅草と渥美さんをこよなく愛した、昭和の名コメディアンだった。
関係者悲しみの声
浅草・フランス座の後輩だった萩本欽一(65) 先輩も後輩も、舞台も袖も笑わす方でした。素に戻ると違う雰囲気になる芸人ではなく、舞台が終わってもみんなを笑わしていて。最後まで浅草が大好きで、浅草芸人といえば関敬六さんでした。「欽ちゃん、元気でやってるかい?」と声を掛けてくれて、僕もお友達のように話しちゃって。普通の行動からおかしくて、どこが芸なのか分からないぐらい。(付き人として)息子さんの面倒を見たこともありました。息子さんも地でおかしかったなあ。関さんの笑顔しか浮かんでこない。笑わし疲れたのかな。残念です。
山田洋次監督(74) 渥美清さんが、最も心を許した友人でした。渥美さんの死後は頭も丸め、なにかと言えばお墓を訪れ、墓石に向かって語りかけていたといいます。今ごろ、渥美さんとうれしそうに手を取り合って、再会を喜んでいるに違いありません。その笑顔が目に浮かぶようです。寅さんシリーズのレギュラーメンバーがまた1人、消えてしまいました。
浅草時代からの仲間の谷幹一(73) 戦友に死なれて、悲しくてたまりません。関やんはいいよ、渥美やんと会って、おれの話をしてるんだろうな。思えば、昭和27年からの付き合いだったね。3人でよく仕事を探しに日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日と、歩いたっけね。どこにいっても、ないないとおっぱらわれたね。そして、渥美やんが映画に、関やんが舞台に、僕は時代劇と分かれていったね。でもプライベートは一緒で、よく夜中まで谷のうちでしゃべりまくったね。それも夢になったね。おれが行くまで、そっちでいろいろ探求しておいてくれよ。祈る、成仏を。関よ、さようなら。
復帰望む声も…
関さんの休演が続いていた「お笑い浅草21世紀」には、復帰の時期の問い合わせが絶えなかったという。関さんも「舞台はどうなっている」と気にし続けていた。晩年は持病の糖尿病のため甘いものを食べられなかったが、橋達也座長が離れると、若手劇団員の前でチョコレートに手を伸ばすなど、ちゃめっ気も見せたという。橋座長は「喜劇の火を消すなと頑張っていましたが、また1つ消えてしまった気がしました。子供のように無邪気で屈託のない人で、誰からも愛された、幸せな人だったと思います」としのんでいた。
