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2006年11月26日(日曜日)

灰谷健次郎さん(児童文学作家)が死去

カテゴリー: - touse @ 23時53分15秒

「兎(うさぎ)の眼」「太陽の子」など、ひたむきに生きる子どもの姿や優しく見守る周囲の人間模様を描いた児童文学作家の灰谷健次郎さんが23日午前4時半、食道がんのため静岡県長泉町の静岡がんセンターで死亡した。72歳だった。全国で問題になっているいじめについても「子どもではなく、大人が悪い」ともらしていたという。灰谷さんの遺言で喪主はおかず、葬儀・告別式も行わない。

 どんよりとした厚い雲が空に広がる中、熱海市の自宅に灰谷さんが帰ってきた。23日午前4時半、静かに眠るように息をひきとった。この1カ月ほど、言葉はしゃべれなかったが、話す相手は認識できていたという。無宗教だった灰谷さんの遺志で葬儀・告別式などは行わないが、親族だけではなく、生前に親交のあった人びとが次々と最後の別れに訪れた。

 神戸市の所属事務所によると、食道がんと判明したのは04年12月だった。灰谷さんが検査後に医師と面談して、どんなに重い病気でも隠さずに告げてほしいという希望から告知された。事務所は「電話が掛かってきて『大変なことになった。最悪や。がんや』といきなり切り出されて驚きました」と振り返る。すぐに東京女子医大に入院。手術の経過もよく、その時は年内に退院できた。

 今年に入ってがんの転移が発覚。9月26日に静岡がんセンターに入院した。関係者は「自分の足で歩いて病院までいかれました。ただ、2年前にがんが分かってからは、執筆されてませんでした」と話す。

 神戸市の小学校に17年間、教師として勤務した。教師を辞したあと、沖縄やアジア諸国を放浪する中で、ひたむきに生きる子どもの姿を執筆する志を持つようになった。74年、ごみ処理場の中の長屋に住みながらも希望を失わない子どもと若い教師との交流を描いた「兎の眼」が200万部のベストセラーとなった。

 97年、神戸市で起きた連続児童殺傷事件の容疑者少年の顔写真を新潮社が写真誌「フォーカス」に掲載した。当時、同社と全作品を出版契約していた灰谷さんは写真掲載を批判して契約を解除してしまった。角川書店と契約を結び、やんちゃな少年・倫太郎が成長していく「天の瞳」をシリーズ化して8作刊行した。

 現在、社会問題化しているいじめにも独自の考えを持っていた。角川書店の第1編集部で灰谷さんの担当だった伊達百合さんは「子どもではなく、範となるべき大人がちゃんとしないといけないんだとおっしゃっていた。『天の瞳』も倫太郎がまっすぐな青年になっていく構想もありました。その作品の中でいじめに関することも書かれたかったのではないかと思います」と話した。

◆灰谷健次郎(はいたに・けんじろう)
1934年(昭和9年)10月31日、兵庫県神戸市生まれ。7人兄妹の三男。56年、大阪学芸大(現大阪教育大)を卒業。神戸市の小学校で教員を務め、72年に退職。諸国を放浪後、74年に「兎の眼」を発表。78年、国際児童年だったことから国際アンデルセン賞特別賞を受賞。79年、「太陽の子」で第1回路傍の石文学賞を受賞。80年、神戸市から淡路島に移住して自給自足生活を始める。91年には沖縄県渡嘉敷島に移る。米軍普天間飛行場の移転問題では反対派の抗議運動に所有する漁船を提供した。

2006年11月24日(金曜日)

黒木憲さん(歌手)が死去

カテゴリー: - touse @ 00時53分41秒

「霧にむせぶ夜」「おもいやり」などのヒット曲で知られるムード歌謡の大御所、歌手黒木憲さん(くろき・けん、本名唐木克彦=からき・かつひこ)が21日午後0時22分、腎不全のために静岡県沼津市の病院で死去した。64歳。

唐木によると、30代から糖尿病を患っていた黒木さんは、97年9月に合併症の脳梗塞(こうそく)で倒れた。左半身がマヒし、言葉がやや不自由となる後遺症が残ったが、歌手復帰を目指して懸命なリハビリを続けてきたという。唐木が新曲を発売すると「お前、その曲をおれにくれ」と冗談交じりに話すこともあった。18日に体調を崩して救急車で搬送され、21日に容体が急変。病院に駆けつけた息子の到着を待つようにして旅立った。唐木は「安らかな笑顔でした。9年2カ月もリハビリに励んだ父には、お疲れさまでしたと言葉を掛けたい。父ともう1度ステージに立てなかったことだけが残念です」と話した。

◆黒木憲(くろき・けん)
1942年(昭和17年)3月12日、東京生まれ。明大在学中からハワイアンバンドで活躍。67年に「夜の東京の片隅で」でデビュー。翌年に「霧にむせぶ夜」がミリオンヒット。ほかに「別れても」「おもいやり」など。

2006年11月19日(日曜日)

仲谷昇さん(俳優)が死去

カテゴリー: - touse @ 01時17分56秒

 渋い個性派俳優として活躍した演劇集団円代表の仲谷昇(なかや・のぼる、本名仲谷昇流=なかや・のぼる)さんが06年11月16日午前7時22分、肺気腫による慢性閉塞(へいそく)性肺疾患のため都内の病院で死去した。77歳。

 中大法学部中退後、50年に文学座に入り「武蔵野夫人」で初舞台。63年に芥川比呂志とともに同座を脱退して劇団雲を設立。75年には演劇集団円の創立に参加した。理知的できまじめな役柄が多く、舞台「リア王」や映画「にごりえ」「砂の上の植物群」ドラマ「天下御免」で確かな存在感を示した。90年にはフジテレビの深夜バラエティー番組「カノッサの屈辱」で進行役の教授を演じ話題となった。54年に女優岸田今日子(76)と結婚したが、78年に離婚。80年に再婚した元スタジオ経営者とは97年に離婚。02年に73歳で設計事務所経営の女性(当時70)と再々婚した。

 競馬、野球ファンとしても知られ、競馬雑誌に連載したこともあるほど。大の巨人ファンで、文学座時代は野球部のエース、演劇集団円では監督を務めた。もともと肺が弱く、楽屋に酸素ボンベを持ち込むほどで、04年夏の2時間ドラマ出演を最後に入退院を繰り返していた。


2006年11月7日(火曜日)

内山田洋さん(クールファイブのリーダー)が死去

カテゴリー: - touse @ 01時54分51秒

 「長崎は今日も雨だった」などのヒット曲で知られるコーラスグループ、内山田洋とクールファイブのリーダー内山田洋さんが、06年11月3日午前に肺がんのため入院先の横浜市青葉区の昭和大藤が丘病院で亡くなっていたことが5日、分かった。70歳だった。既に近親者で密葬を済ませたという。
 今年4月に体調不良を訴えて検査入院し、そのまま自宅に戻ることなく帰らぬ人となった。全国的な人気グループのリーダーだけに、関係者はファンとの「お別れの会」実施を検討している。
 内山田さんは57年から福岡県の白木原ベースキャンプなどで演奏活動を始め、その後は福岡や長崎のキャバレーやクラブを中心に活動。67年に長崎市でグループを結成した。翌68年に前川清(58)がボーカルとして参加し、69年2月に「長崎は今日も雨だった」でレコードデビュー。同曲が大ヒットし、NHK紅白歌合戦にも出場した。
 だが、87年に前川がグループを脱退してからは人気が急降下。96年には新メンバーを加えて「再び長崎」を発表したが、ファンには違和感が払しょくできず、自然解散状態になってしまった。
 内山田さんは高校時代に水泳の選手として活躍。芸能界入りしてからも水着を持ち歩き、地方のホテルで空き時間を見つけては水泳を楽しむスポーツマンだった。腕立て伏せを週3日150回のペースを欠かさず、体調管理には人一倍気を使っていた。
 昨年10月、夕刊紙の取材を受けた際には「最近は僕ひとりで営業のステージを務めることが多い。若い女性がいると、KinKi Kidsの『硝子の少年』を披露する。内山田のステージは楽しいと評判いいんです」などと元気に話していた。昨夏には20代の女性と「内山田洋とクールガールズ」を結成したとして「ステージに張りが出てきた」と笑顔をみせるなど、最後まで音楽活動への意欲は衰えなかった。

◆内山田洋(うちやまだ・ひろし)本名・内山田道生(みちお)。
1936年(昭和11年)6月6日、福岡県生まれ。同県の白木原米軍基地で音楽活動を始め、67年に内山田洋とクールファイブを結成。長崎のクラブを中心に活動し、自主制作した「涙こがした恋」が有線放送で人気になる。69年、メジャーデビュー曲「長崎は今日も雨だった」が大ヒットし、同年日本レコード大賞新人賞受賞。NHK紅白歌合戦には11回出場した。92年にメンバーを大幅に入れ替え、活動を再開。


2006年11月5日(日曜日)

ポール・モーリアさん逝去

カテゴリー: - touse @ 01時27分44秒

マルセイユに生まれ、1941年にマルセイユ国立音楽院を卒業。18歳の頃からミュージシャンとして活躍、1952年にイレーヌ夫人と結婚。
1965年にポール・モーリア・グランド・オーケストラを結成し、1968年に「恋はみずいろ」を世界的にヒットさせ、全米ヒットチャート1位を記録、これでグラミー賞を受賞し、一躍名を馳せた。
その後日本では、「蒼いノクターン」(彼自身による作曲)「エーゲ海の真珠」(メルシャンワインのCF曲として使われた)「涙のトッカータ」「オリーブの首飾り」「そよ風のメヌエット」(これも彼自身による作曲で、メルシャンワインのCF曲として使われた)等と立て続けにヒットを重ね、日本では「イージーリスニング界の大御所」と言われるようになった。池田満寿夫監督の日伊合作映画「窓からローマが見える」のオリジナル・サウンドトラックの音楽を担当したり、来生たかおと共演したりするなど、日本と縁の深いアーティストといえる。
1994年から長年所属していたフィリップスからポニーキャニオンへ移籍した。1998年のジャパンツアーを最後に指揮者を引退した。本人の来日は1998年が最後だが、ジル・ガンブス(2003年、2004年)、ジャン=ジャック・ジュスタフレ(2005年)を指揮者として、ポール・モーリア・グランド・オーケストラの公演が行われた。
2006年11月3日午前1時、ペルピニャンの病院で逝去。81歳だった。


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