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2007年3月29日(木曜日)

横地治男氏(全日本柔道連盟顧問、講道学舎会長)が逝く

カテゴリー: - touse @ 14時00分30秒

 横地治男氏(よこち・はるお=全日本柔道連盟顧問、講道学舎会長)07年3月28日午前5時57分、不整脈のため東京都目黒区の病院で死去、95歳。島根県出身。

76年、柔道の私塾、講道学舎を設立し、92年バルセロナ五輪金メダリストの古賀稔彦ら多くの五輪メダリストを輩出した。


2007年3月27日(火曜日)

「日本一の無責任男」植木等さんが逝く

カテゴリー: - touse @ 23時08分15秒

 「クレージーキャッツ」のメンバーとして高度成長時代に爆発的な人気を博したコメディアンで俳優の植木等さんが07年3月27日午前10時41分、都内の病院で呼吸不全のため亡くなった。80歳。「お呼びでない?」のギャグや大ヒット曲「スーダラ節」、映画「無責任男シリーズ」で60年代の日本に笑いを振りまいた。今年1月に入院し、3月中旬から病状が悪化していた。
植木さんは、妻の登美子さんと3人の娘さんにみとられながら、静かに息を引き取った。

 97年にNHK朝の連続テレビ小説「甘辛しゃん」に出演中のころから肺気腫を患い、治療をしながら収録に参加した。その後も病気と闘いながら仕事を続けたが、今年1月16日に食欲不振を訴え、都内の病院に検査入院。点滴・治療を行い、今月8日に自宅に一時帰宅した。しかし、翌9日に再入院し、中旬には容体が悪化し意識も混濁。その間、「クレージーキャッツ」の仲間だった谷啓(75)や桜井センリ(77)犬塚弘(78)が見舞いに訪れ、谷は17日、桜井は12日、犬塚は25日が最後の面会になった。亡くなった直後、40年前に付き人をした小松政夫(65)が駆けつけ号泣した。
 犬塚は「25日に見舞った時は呼吸が苦しそうだった。手を握ったら握り返してくれた気がした。2、3時間そばにいたけど、つらかった」としのんだ。
 植木さんは昨年12月の旧友の青島幸男さんの通夜に酸素吸入器をつけ、車イスに座って参列した。しかし、焼香の際には車イスから立ち上がり、毅然(きぜん)と焼香する姿に、関係者は「男の美学を感じた」という。植木さんは当時から死を覚悟していたのか、同11月には妻、マネジャーに「自分に何かあったら密葬にしてほしい」「延命措置などを行うのもやめてほしい」と遺言を残していた。
 実家は三重県の浄土真宗常念寺。住職の父が「平等」にちなみ「等」と名付けた。小学6年で僧りょ修行のため上京したが、音楽活動にのめり込み、57年「クレージーキャッツ」に参加。61年から日本テレビ系「シャボン玉ホリデー」に出演し「お呼びでない?」のヒットギャグを生み、故青島幸男さん作詞の「スーダラ節」も大ヒット。62年からの映画「無責任男シリーズ」で明るく調子のいいサラリーマンを演じ、同世代から圧倒的支持を受けた。
 「無責任男」のイメージが強かった植木さんだが、根はまじめだった。犬塚は「きまじめないい人だったよ。きちんとしているからあれだけいい仕事ができた。クレージーは仲が良く、仕事が終わっても楽屋に残ってわいわいと話をして楽しかった。中心にいつもいて、華やかな人だった」。
 植木さんは、70年代後半から性格俳優として活躍し、85年には黒沢明監督「乱」に出演。脇役で渋い演技をみせた。最後の仕事は昨年11月。金沢で1シーンだけ出演した映画「舞妓Haaaan!!!」(6月公開)。一昨年11月の渡辺プロ設立50周年パーティーでは、谷が歌い、犬塚がベース、桜井がピアノを演奏し、植木さんが「こりゃまた失礼いたしました〜」とセリフを入れて「クレージー−」を再現した。「『また4人でドラマをしたいね』と話していた。やりたかったなあ」。かなわぬ夢に終わった。

 代表曲「スーダラ節」は植木さんと日本を変えた1曲だった。誕生したのは61年。東京五輪を3年後に控え、高度経済成長期のまっただ中だった。当初、植木さんは「ふざけた曲」として歌うのを嫌っていた。そうでなくても、バラエティー番組でみせるすててこ姿のため、娘が学校で笑われていた。住職の父に相談すると、「『分かっちゃいるけど−』は親鸞の教えに通じる」と言われ、迷いを吹っ切った。
 「芸能ビジネスを創った男・渡辺プロとその時代」(野地秩嘉著)によると、植木さんは「思えばあのころが世の中の変わり目だったね。スーダラ節は大ヒットしたが、その年の紅白歌合戦には出られなかった。品がないし、植木等は不謹慎だからだめというのが理由だったと思う」と振り返っている。それまでは歌詞をかみしめ、メロディーにじっくり耳を傾ける曲が主流だった。ところが、ノリの良さが第一の「スーダラ節」のヒットは、当時の日本社会の高揚感をあおり、クレージーも翌年紅白出場を果たした。
 ちなみに「スイスイスーダララッタ」は植木さんが気分よくしたときに口ずさんだフレーズがベースだった。日本を気持ちよくさせるフレーズにもなった。

 27日、植木等さんの死は芸能界に大きな衝撃を与えた。しかし、都内の自宅前は衝撃の大きさに反比例するように、ひっそり静まり返った。所属事務所の渡辺プロダクションは通夜・葬儀は密葬で行いたいという故人の遺志を貫くよう、マスコミ各社の取材を断った。同プロとともに芸能界発展の最大の功労者に報いるための、異例の措置だった。
 植木等さんの死去は、一般のファンのみならず、芸能界にとっても大きな衝撃だった。縁の深いクレージーキャッツの盟友・谷や桜井センリ(77)所属事務所の渡辺美佐会長(78)らがショックのあまりにコメントを出せないほどだった。
 所属のワタナベエンターテインメントは、マスコミ各社にファクスで訃報と、植木さんの最後の様子を伝えたが、自宅取材などに対しては、取材規制を敷いた。「故人の遺志を最大限尊重致したい」と理由を説明した。数々の有名タレントが、同社を辞めていった中、最後まで筋を通して籍を置き続けた。関係者は「植木さんが居続けてくれたことは、我々の最大の支えであり励みでした」と明かす。取材規制は、義理堅かった植木さんに送る最後の恩返しだった。
 植木さんの芸能界への功績は、単なる「昭和の人気スター」というだけでは収まりきらない。故渡辺晋会長とともに、61年の「スーダラ節」発売で、芸能音楽に革命をもたらした。それまでレコード会社が所有していた原盤権を、芸能プロダクション側に帰属させた記念すべき1枚だった。これにより、歌手やフリーの作詞・作曲家が、作りたい音楽を自由に制作できるシステムが構築。さらに、芸能プロダクション業が、仲介業から知的財産業に発展した。音楽分野の幅が広がり、さまざまな才能、タレントを発掘できる素地が整ったのだ。
 SMAPが「現代のクレージーキャッツ」と称されることがある。アイドル歌手の枠にとどまらず、ドラマや映画、さらにはお笑いや司会業と、活躍の場を無限大に広げる姿は、50年から60年代の「クレージー−」に通じるものがある。今の日本芸能ビジネスをつくり上げた先駆者こそ植木さんたちだった。

 1960年代の終わりに渥美さんの「男はついらいよ」シリーズが始まりますが、それまで日本のコメディー映画は東宝の「無責任シリーズ」であり「日本一シリーズ」だったんです。
 もちろん、その中心に植木さんがいた。彼は国民的喜劇俳優だった。当時はお正月、お盆、それにゴールデンウイークと、順番にこのシリーズがかかっていたように記憶しています。年に3回も4回も、スクリーンで会えるいい男でした。
 ちょうど、高度経済成長期と重なり、日本の明るさや夢を、彼がスクリーンの中でも表現していったんじゃないですか。
 彼の最大の魅力は今でいう歌って踊れるミュージカル俳優ですが、それだけじゃない魅力があった。
 それは一言でいうと「スマートさ」かもしれません。スイ、スイ、スイと「スーダラ節」の歌通りに映画の中でも出世していくんですが、その調子の良さがなぜか嫌みに見えない。
 サラリーマン・木下藤吉郎みたいな役もやっていましたが、これも嫌みを感じさせない。彼の家がお寺さんであることや、戦争を体験されていることなど、まぁ、いろいろ背景はあると思いますが、そういったスマートさがなければ、あそこまでの映画シリーズを若くして背負うことはできなかったと思います。
 1つ残念なことは、晩年、テレビでは、個性的ともいえる名優ぶりを発揮されていましたが、映画では、強烈なシリーズものを過去に持ったぶん、その印象が強すぎたのでしょうね。特別印象に残る作品に恵まれなかったのではという気がします。心よりご冥福をお祈りします。

◆植木等(うえき・ひとし) 本名同じ
1927年(昭和2年)2月25日、愛知県生まれ。東洋大文学部卒業後、バンド活動を始め、57年にハナ肇がリーダーの「クレージーキャッツ」に参加。「スーダラ節」がヒットし、62年からの映画「無責任シリーズ」の大ヒットで「無責任男」が異名に。後に性格俳優として多くの映画、ドラマに出演。86年「新・喜びも悲しみも幾歳月」で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞、95年「あした」で日刊スポーツ映画大賞助演男優賞を受賞。93年紫綬褒章、99年に勲4等旭日小綬章を受章した。

2007年3月22日(木曜日)

鴨志田穣氏(フリーカメラマン)が死去

カテゴリー: - touse @ 16時58分38秒

 鴨志田穣氏(かもしだ・ゆたか=フリーカメラマン)07年3月20日午前5時、腎臓がんのため東京都江東区の病院で死去、42歳。川崎市出身。
妻は漫画家の西原理恵子(さいばら・りえこ)さん。主な作品に「アジアパー伝」(西原さんとの共著)など。


2007年3月21日(水曜日)

尾崎光宏氏(前関西大一高野球部監督)が死去

カテゴリー: - touse @ 16時55分44秒

 尾崎光宏氏(おざき・みつひろ=前関西大一高野球部監督)07年3月20日午前9時40分、胃がんのため大阪市北区の病院で死去、67歳。高松市出身。

 高松商から関大に進み、61年6月に関西大一高野球部監督に就任。98年の第70回選抜大会では久保康友(現ロッテ)を擁し、決勝で松坂大輔(レッドソックス)の横浜と対戦。敗れたが準優勝に輝いた。同年夏にも春夏連続で甲子園出場、8強進出。04年7月に監督を勇退。05年には功績が認められ日本高野連から「Year of the Coach」に選出された。


2007年3月20日(火曜日)

太宰義人師(調教師)が死去

カテゴリー: - touse @ 19時20分00秒

 病気療養中だった太宰義人(だざい・よしひと)師が07年3月19日午前5時45分、入院先の国立滋賀病院で死去した。61歳。宮城県出身。

 太宰師は麻布獣医大(現麻布大)卒業後の72年、26歳で中村好夫厩舎からデビュー。史上初の大卒ジョッキーとして話題を集め、通算834戦80勝、重賞2勝(72年函館3歳S=タカヨシタイホウ、82年阪神4歳牝馬特別=ツキマリー)。83年に調教師免許を取得し、85年に開業。通算4806戦328勝を挙げ、重賞は97年中日スポーツ賞4歳Sをオープニングテーマで勝っている。啓介騎手が98年にデビューしてからは、親子鷹として注目されていた。厩舎の所属馬やスタッフの移動先については未定。


2007年3月19日(月曜日)

俳優の船越英二さん死去

カテゴリー: - touse @ 18時01分50秒

 「野火」「時間ですよ」など、数多くの映画やテレビドラマで活躍した俳優の船越英二(ふなこし・えいじ、本名船越榮二郎=ふなこし・えいじろう)さんが17日午後10時57分、脳梗塞(こうそく)のため静岡県の病院で死去した。84歳だった。東京都出身。
 1947年に大映第2期ニューフェースに合格し、俳優に。おっとりとした品のある二枚目として売り出した。田中絹代、若尾文子さんらと共演し、主役を演じた市川崑監督の「野火」(59年)で毎日映画コンクール男優主演賞とキネマ旬報男優賞を受賞。このほか、「夜の蝶」「破戒」「私は二歳」などに出演した。
 70年以降は活動の場をテレビに移し、滋味あふれるキャラクターを生かして数々の作品に出演。代表作に、森光子さんと夫婦役を演じた「時間ですよ」(TBS系)、「熱中時代」(日本テレビ系)、「暴れん坊将軍」シリーズ(テレビ朝日系)などがある。89年には紫綬褒章を受けた。


2007年3月14日(水曜日)

俳優の鈴木ヒロミツさん死去

カテゴリー: - touse @ 23時07分41秒

 歌手やドラマの脇役として活躍した俳優鈴木ヒロミツさん(本名・弘満=ひろみつ)が07年3月14日午前10時2分、肝細胞がんのため都内の病院で死去した。60歳。今年初めに余命3カ月の告知を受け、家族とともに暮らすことを望んで入院治療は受けなかった。グループサウンズの伝説的バンド、ザ・モップスのボーカリストとして井上陽水、松任谷由実ら多くのミュージシャンに影響を与えた。

 所属事務所のホリプロによると、鈴木さんは妻美枝子さん、1人息子の雄大さん(20=大学2年)にみとられ、眠るように息を引き取った。前日には見舞いに訪れた友人らと言葉を交わしていたが、この日午前に急変した。最後は雄大さんの名前を何度も呼び、周囲の呼び掛けにうなずく場面もあったという。

 鈴木さんは昨年12月末から腹痛などの体調不良を訴え、今年1月に都内の病院で検査を受けた。すでに末期の状態で、手の施しようがなかった。医師との長年の信頼関係から、家族とともに「余命3カ月」の告知を受けた。

 その後2つの病院で検査も受けたが、結果は変わらない。「残りの時間を家族とともに過ごしたい」と入院はせず、週に1度の通院と投薬による自宅療養を選んだ。告知後も落ち込んだ姿を見せず、周囲には温かい言葉をかけて気を配っていた。13日に通院した際に、そのまま入院した。

 67年にグループサウンズ、ザ・モップスのボーカルとして「朝まで待てない」でデビュー。「たどりついたらいつも雨ふり」「気らくにいこう」などのヒット曲を出した。アイドル調のGS全盛時代に、R&B色の濃いサイケデリックサウンドをいち早く日本に持ち込んだ。井上陽水がステージの前座を務めたり、追っかけの中には高校生時代の松任谷由実がいたこともよく知られる。ほかにも忌野清志郎、バブルガムブラサーズなど影響を受けたミュージシャンは多い。

 74年にザ・モップスを解散後「モービル石油」のテレビCMが話題になり、俳優に転身。「夜明けの刑事」などのドラマや、NHKの若者向け番組「レッツゴーヤング」で司会を務めるなど幅広く活躍した。個性的な髪形と丸いメガネでおなじみのユーモラスな三枚目タレントとして親しまれた。

 大きな病気はしたことがなく、酒豪と食道楽で知られた。ウイスキーのボトル1本を空けることもあり、宴会の後でラーメン2杯を食べるほどの大食漢でもあった。食への好奇心から、世界中の珍食材に挑戦した著書「食わずに死ねるか!」を出版したこともある。大の中日ファンでも知られ、スポーツも大好き。雄大さんとラグビー観戦を楽しむことも多かった。ホリプロ関係者は「楽しむことを味わい尽くした人生でした」としのんだ。


◆ 鈴木(すずき)ヒロミツ 本名:鈴木弘満(ひろみつ)
1946年(昭和21年)6月21日、東京生まれ。武蔵大中退。バンドをやっていた弟の影響で音楽に目覚め、67年にグループサウンズ「ザ・モップス」を結成。ボーカルとして、デビュー曲「朝まで待てない」のほか、「たどりついたらいつも雨ふり」「月光仮面」などのヒット曲を生んだ。74年に解散後は俳優、タレントとして活躍。「夜明けの刑事」などのテレビドラマや映画「ロングラン」が代表作。著書に「ロサンゼルスで暮らす方法」「食わずに死ねるか!」がある。遺作はゴールデンウイーク公開のオムニバス映画「歌謡曲だよ、人生は」。美少女につらい宣告をする医師役を演じている。

2007年3月9日(金曜日)

小林恭治氏(声優)が死去

カテゴリー: - touse @ 17時36分01秒

 小林恭治氏(こばやし・きょうじ=声優)が07年3月8日午前1時2分、くも膜下出血のため東京都世田谷区の病院で死去、75歳。東京都出身。
 NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」のダンディーやアニメ「おそ松くん」のイヤミの声、アニメ「巨人の星」のナレーターなどを務めた。


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