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2008年3月29日(土曜日)

市川崑監督「お別れの会」

カテゴリー: - touse @ 01時26分45秒

 2月に92歳で亡くなった映画監督・市川崑さんのお別れの会が29日、東京・世田谷区成城の東宝スタジオで開かれ、映画関係者ら約850人が故人をしのんだ。

 お別れの会は、市川さんが金田一耕助シリーズなどを撮影したステージで行われ、約1万本の花を植えた祭壇に、トレードマークのたばこをくわえた市川さんの遺影が飾られた。

 78本に上る劇場公開作品や生前のスナップ写真を編集した17分の追悼映像を上映。

 これに続き、金田一シリーズで主演した石坂浩二さんが「監督の好きだった麻雀(マージャン)大会もサーロインステーキもない、こんな会は本当につまらないです。撮りたい映画の構想を練って、(天国で)お待ち下さい」と弔辞を述べた。
 岸恵子さんが「細雪」や「悪魔の手毬(てまり)唄」への出演依頼を受けた時の逸話を披露した後、吉永小百合さん、中村敦夫さん、谷川俊太郎さんらが献花した。

市川崑

 記録映画「東京オリンピック」や「ビルマの竪琴」など多くの名作を作った映画監督の市川崑(いちかわ・こん)さんが13日午前1時55分、肺炎のため都内の病院で亡くなった。92歳。先月24日に体調を崩し、入院していた。巨匠の死に衝撃を受ける映画関係者は多く、「細雪」「おはん」など多くの市川作品に出演した女優吉永小百合(62)はベルリンで悲報に接し、絶句した。葬儀・告別式は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く予定。喪主は長男建美(たつみ)氏(60)。

 市川監督の遺体はこの日早朝、病院から都内の自宅に戻った。主人を失った自宅は一日中、悲しみに包まれるようにひっそりとしていた。監督は1月24日に「息苦しい」と訴え、そのまま入院した。小康状態を保っていたが、長男建美さん、長女舞子さんら家族に見守られながら眠るように亡くなったという。穏やかな最期だったが家族のショックは大きく、多くの弔問の申し出を断り、対面したのはフジテレビ日枝久会長や一部の映画関係者だけだった。

 くわえたばこがトレードマークで、1日4箱吸うほどのヘビースモーカーだったが、晩年は1箱半に減らしていた。好物の肉料理も減らし、リンゴを食べるなど食生活にも気を使っていた。健康管理を徹底していたのは、映画への情熱があったからだ。高齢であることもあって、新作現場では「あと何本取りたいですか」という質問がよく出た。しかし「手帳には20本くらい企画が書いてある」と答えるなど、創作意欲は衰えることはなかった。最後の作品になった76作目の「犬神家の一族」の試写会では、完成したばかりの作品を目の前に「もう少し長生きして、もうちょっとちゃんとした映画を作りたい」と笑わせた。

 巨匠と言われることが多いが、言葉のイメージと違って、柔軟な創作体勢を常に保っていた。「犬神家−」リメークの時には、CGを「時代のすう勢だから。若返ってたしなみたい」と話した。旺盛な実験精神は、65年の「東京オリンピック」で存分に発揮された。ストップモーションなども多用し、記録か芸術かで物議を醸した一方、カンヌ映画祭で国際批評家賞を受賞するなど海外で高い評価を受けた。学校や地域で繰り返し上映されたことで、約1800万人を動員した。記録は今でも破られておらず、日本映画史上最大のヒット作と言われている。

 ディズニーアニメを見て映画界を志し、アニメーターとして修業を積んだ異色の経歴だ。「東京−」に代表されるドキュメンタリー、監督の名前を一躍知らしめた「ビルマの竪琴」や「野火」などの文芸作品だけでなく、恋愛もの、アニメなどあらゆるジャンルの作品を、妻で脚本家の和田夏十(なっと)さんと二人三脚で手掛けた。また、大作に取り組む一方、テレビの「木枯し紋次郎」などで斬新な映像美とさえた演出を見せた。83年に夏十さんが亡くなった後も、四騎の会で活動した黒沢明監督らとの共同脚本を映画化した「どら平太」や「かあちゃん」などをヒットさせた。

 映画人だけでなく、三谷幸喜や宮部みゆき、和田誠、椎名誠ら作家や画家など、創作者に影響を与え続けてきた。「映画は天職」と語り、衰えぬ創作意欲から、新作が最も待望される監督だった。

◆市川崑(いちかわ・こん)
1915年(大正4年)11月20日、三重県生まれ。東宝京都スタジオを経て、48年に新東宝「花ひらく」で監督デビュー。55年日活に移籍し、56年「ビルマの竪琴」でベネチア映画祭サン・ジョルジョ賞。以後「日本橋」「炎上」「鍵」「おとうと」「破戒」などを発表。65年「東京オリンピック」で新境地を開き、カンヌ映画祭国際批評家賞。76年から「犬神家の一族」など金田一耕助シリーズを手掛ける。その後も「細雪」「どら平太」など話題作を製作。94年文化功労者に選ばれ、01年にモントリオール世界映画祭で功労賞を受賞した。ドラマでも活躍し、72年の時代劇「木枯し紋次郎」の監修や監督も務めた。妻は東宝撮影所で出会った脚本家の和田夏十さん(83年死去)で、監督作品の多くの脚本を手がけた。

2008年3月25日(火曜日)

お笑い芸人・マイウェイ昌彦氏死去 「マジカルダンス」で活躍

カテゴリー: - touse @ 23時04分36秒

 お笑い芸人のマイウェイ昌彦氏(まいうぇい・まさひこ、本名・森山昌彦=もりやま・まさひこ)19日、脳幹部出血および脳室内出血のため死去した。46歳。
 マジックにダンスを組み合わせたコミカルな「マジカルダンス」で、浅草の東洋館などで活躍した。


2008年3月24日(月曜日)

民放第一声、元CBCアナ 宇井昇さん焼死

カテゴリー: - touse @ 23時53分30秒

 東京都江戸川区のアパートで18日に起きた火災で死亡した住人の無職・宇井昇さん(84)は、日本の民間ラジオ放送で第一声を発した中部日本放送(CBC)の元アナウンサーだったことが21日、分かった。

 宇井さんは東京都墨田区生まれ。大蔵省を経て、1951年にCBCへ入社。同社によると、同年9月1日午前6時半には民放初のラジオ放送で、担当アナウンサーとして「中部日本放送、JOAR」「皆さん、おはようございます」などと第一声を発した。

 59年にフリーとなり、81年からはリクルートで、企業の社員研修を行うトレーナーとなる。02年に退社した。

 07年の中日の日本一の際は「これまで『中日の日本一を見るまでは死ねない』と言っていた私ですが、思い残すことはありません」と話していた。


2008年3月11日(火曜日)

元レピッシュ・上田現さんが死去 「ワダツミの木」作家

カテゴリー: - touse @ 00時10分47秒

 元ちとせの「ワダツミの木」の作詞作曲などで知られる音楽プロデューサーの上田現さんが9日(日)午後5時15分、肺がんのため47歳の若さで死去したことが分かった。10日(月)、2002年まで所属したスカバンド・レピッシュの公式HP及び所属事務所の公式HPで発表されたもの。


2008年3月1日(土曜日)

江藤慎一さん死去、中日、ロッテで活躍

カテゴリー: - touse @ 00時35分06秒

 中日、ロッテなどで強打者として活躍、史上ただ1人両リーグで首位打者に輝いた江藤慎一氏が08年2月28日午後3時38分、肝臓がんのため都内の病院で死去した。70歳だった。気迫をむきだしにするプレーから「闘将」と呼ばれ、75年には太平洋(現西武)で兼任監督も務めた。中日時代の64、65年には2年連続して首位打者となり、巨人王貞治(現ソフトバンク監督)の3冠王を阻止。71年にはロッテで首位打者を獲得した。

 「闘将」と呼ばれた江藤氏も病魔の前に力尽きた。5年近い闘病生活に耐えてきた。実弟の江藤省三氏が見舞った際には、色紙に得意だったダルマの絵を添え「七転び八起き」と書いて贈ったという。そんな不屈の精神の持ち主も、28日午後、ついに帰らぬ人になった。

 59年に社会人の日鉄二瀬からテスト生として中日入りした。捕手ながら「一塁もできます」と出場のチャンスをつかんで、打率2割8分1厘、15本塁打。1年目からフル試合出場を果たした。同期の王貞治、1年前には長嶋茂雄が巨人入りしていた。そんな時代にプロ野球を代表する強打者となった。

 64、65年には3冠王に挑んだ王の前に大きく立ちはだかった。65年にはデッドヒートを演じ、最後の2試合で5割の数字を残した江藤が首位打者を獲得した。打率3割3分6厘。王は2年連続して本塁打、打点のタイトルをとりながら、打率は2度とも2位だった。その当時、江藤は「絶対に(首位打者は)オレがとる」と公言、その言葉通りの結果を出した。

 生活ぶりも豪快で、酒のにおいをさせながら球場入りすることもあったという。大洋(現横浜)時代を知る関係者は「当時の遠征は旅館でしたが、朝起きると江藤さんが帰ってきてヤカンの水をがぶ飲みしていたのを思い出します」と話した。その一方で、バットを振ることは忘れなかった。実弟の省三氏も「いくら飲んでもバットだけは離さなかった。ガレージでよく振っていました」と当時を語った。

 豪快なイメージの一方で細やかな配慮もできる人だった。山下大輔氏(日刊スポーツ評論家)は大洋に入団した74年、1年間だけ江藤氏と一緒にプレー。「こっちは新人で、向こうはスーパースター。そんな関係なのに、ダイスケ、ダイスケといってかわいがってもらいました」と振り返った。退団後もOB会で球団に対して「もっとOBを大事にしないといけない」と苦言を呈することもあった。

 省三氏がロッテのコーチに就任した際(95年)には、こんな言葉を送った。「人生の成功は十分の一」。100%など無理、その10分の1で十分、納得しなさいという意味だった。常に全力投球、フルスイングで試合に臨んだ人には意外な言葉といえるかもしれない。あのプレースタイルでも、まだ10分の1だったのだろうか。「昭和の強打者」がまた1人いなくなった。



◆江藤慎一(えとう・しんいち)
1937年(昭12)10月16日、熊本県生まれ。熊本商から日鉄二瀬を経て59年中日入団。64、65年と2年連続首位打者を獲得。69年に1度引退するも、70年6月に社会人、中日で世話になった濃人監督のロッテへ移籍。翌71年に3度目の首位打者に輝き、史上初の両リーグ首位打者となる。72年に大洋へ移籍、75年には太平洋で選手兼任監督。76年はロッテでプレーしその年引退。ベストナイン6回、オールスター出場11回。引退後は85年、静岡県に日本野球体育学校を設立。巨人、中日でプレーした省三氏は実弟。


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