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	<title>冠婚葬祭トピックス</title>
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	<description>世界ニュース　著名人の訃報など</description>
	<language>ja</language>
	<copyright>Copyright 2008</copyright>
	<pubDate>Tue, 13 May 2008 14:55:17 +0000</pubDate>
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		<title>故夏目雅子さん母、小達スエさん死去</title>
		<link>http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/05/13/234/</link>
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		<pubDate>Tue, 13 May 2008 23:55:17 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;t&amp;#111;u&amp;#115;&amp;#101;&amp;#64;to&amp;#109;u&amp;#114;a&amp;#105;&amp;#46;&amp;#106;p&gt;</author>
		
	<category>国内ニュース</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/05/13/234/</guid>
		<description>	　故夏目雅子さんの母で、「夏目雅子ひまわり基金」代表の小達スエさん（おだて・すえ）が１０日午後８時５８分、進行性核上性まひのため東京都港区の病院で死去。７４歳。群馬県出身。通夜は１３日午後６時、葬儀・告別式は１４日正午から東京都文京区千駄木５の１９の５、在家日蓮宗浄風会館で。喪主は長男、一雄（かずお）氏。　夏目さんが白血病で死去した８年後の平成５年に基金を設立。抗ガン剤の副作用で脱毛した患者にかつらを貸与したり、骨髄移植のドナー登録を呼びかけるなどの活動をした。二男の小達敏昭（４０）はプロゴルファー。一雄氏の妻は女優の田中好子（５２）。
&lt;br /&gt;
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><FONT size=2>　故夏目雅子さんの母で、「夏目雅子ひまわり基金」代表の小達スエさん（おだて・すえ）が１０日午後８時５８分、進行性核上性まひのため東京都港区の病院で死去。７４歳。群馬県出身。通夜は１３日午後６時、葬儀・告別式は１４日正午から東京都文京区千駄木５の１９の５、在家日蓮宗浄風会館で。喪主は長男、一雄（かずお）氏。<BR><BR>　夏目さんが白血病で死去した８年後の平成５年に基金を設立。抗ガン剤の副作用で脱毛した患者にかつらを貸与したり、骨髄移植のドナー登録を呼びかけるなどの活動をした。二男の小達敏昭（４０）はプロゴルファー。一雄氏の妻は女優の田中好子（５２）。</FONT><BR>
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        	</item>
		<item>
		<title>横山ノックさん納骨</title>
		<link>http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/05/03/90/</link>
		<comments>http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/05/03/90/#comments</comments>
		<pubDate>Sat,  3 May 2008 22:57:30 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;t&amp;#111;u&amp;#115;&amp;#101;&amp;#64;tomu&amp;#114;ai&amp;#46;&amp;#106;p&gt;</author>
		
	<category>エンターテインメント</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/05/03/90/</guid>
		<description>	　昨年５月３日に死去した元大阪府知事で漫才師、横山ノックさん（享年７５）の遺骨が神戸市内の霊園に納骨されたことが２日、わかった。中咽頭がんで亡くなってちょうど１年、霊園は生まれ育った神戸を見渡せる六甲山近くだという。　「漫画トリオ」を組んだ上岡龍太郎さん（６６）、タレント、青芝フック（７１）らによる一周忌のしのぶ会も４月末に行われた。上岡さんは、「ノックさんはお墓の前にはいない。千の風どころか、漫才の漫（万）の風になって、生き続けている」とスピーチしたという。
	&amp;nbsp;
	
	
	
	◆横山（よこやま）ノック　本名・山田勇１９３２年（昭和７年）１月３０日生まれ、神戸市出身。神戸の米軍施設で通訳などを務めた後、５５年に宝塚新芸座に入団。秋田Ｂスケに弟子入りし秋田Ｋスケの名でデビュー。その後、吉本興業に入社し横山エンタツ氏に師事。当時ブームだったボクシング用語を取って横山ノックと改名し「横山ノック・アウト」で舞台に立った。５９年横山パンチ（のちの上岡龍太郎）横山フック（初代・故人、のちの青芝フックは２代目）と「漫画トリオ」を結成した。６８年７月、参院選全国区に無所属で立候補し初当選。漫才師出身のタレント議員第１号となった。同年、漫画トリオを解散したが政治家兼タレントとして活躍。９５年、参院議員を辞職し大阪府知事に当選。ＡＰＥＣなどを成功させ９９年には２３５万票の過去最高得票で当選。しかし、この選挙期間中の女子大生への強制わいせつ罪で辞職。００年８月、懲役１年６月、執行猶予３年の判決を受け、事実上タレント活動も自粛した。上岡と２人で司会を務めた土曜昼のバラエティー「ノックは無用」は７５年１月から（知事就任後は降板）９７年９月まで続く長寿番組だった。　家族は５８年に結婚した夫人と１男１女。

&lt;br /&gt;
	　前大阪府知事でタレントの横山ノックさん（本名・山田勇＝やまだ・いさむ）が３日午前７時１５分、中咽頭（いんとう）がんのため兵庫県西宮市の病院で亡くなった。７５歳だった。ノックさんは約３年前からがんを患い、１度は手術、治癒したものの昨年末ごろから再び体調を崩し入退院を繰り返していた。コント、司会で活躍し、６８年に参院全国区で当選して政界入り。９５年には大阪府知事選に当選し、９９年にわいせつ行為で在宅起訴されるまで４年８カ月務めた。
	　ノックさんは３年ほど前に咽頭がんと診断され、一昨年には手術、放射線治療を受け１度は治癒していた。しかし心臓に持病を持っていたこともあり、昨年後半からは入退院を繰り返しながら病魔と闘ってきた。最後まで体調回復を目指してきたが、ついに力尽きた。闘病中もごく一部の関係者にしか入院先を知らせず、はっきりした病名も告げていなかった。最近では車いすに乗って移動する姿を目撃されたり、親しい友人には「（腹から）声が出ない」と漏らすこともあったという。
	　親しい関係者によると、今年１月には横山たかし・ひろし、プリンら横山一門会が行われノックさんを含め約１５人が出席。その時は「横山一門はお前らが盛り上げてくれよ」と後輩らを叱咤（しった）激励した。
	　最期は当初、ごく親しい関係者にしか知らされず、この日夜になって喪主の長男一貴さんがマスコミ各社にファクスで通達。「葬儀並びに告別式は親族だけの密葬とさせていただきますのでご理解を賜りたく、伏してお願い申し上げます」と送り、後日「お別れの会」を開くことを明かした。
	　ノックさんは神戸市出身。戦後、米軍施設で通訳などしていたが５５年、芸人を志し宝塚新芸座に入団。秋田Ｂスケ氏に弟子入りし「秋田Ｏスケ・Ｋスケ」のＫスケとしてデビューした。その後、横山エンタツに再入門し５９年、上岡龍太郎らと漫画トリオを結成。「パンパカパーン、今週のハイライト」でおなじみのニュース漫才で爆発的人気を得た。
	　６８年、参院選全国区に無所属で立候補し当選。タレント議員の草分け的存在としてお笑い、政治家を両立させ、その後は全国区２回、大阪選挙区で２回、参院選に当選。その髪形から自らを「タコ」と呼び、政治家となっても強烈なボケ役を徹底させ、テレビでも唇を突き出して体をくねらせ「タコ踊り」などと笑わせた。
	　９５年４月には大阪府知事選に出馬し初当選した。無党派を旗印に、議会のほとんどが野党という状態だったが、その愛されるキャラクターで府民からの人気は高く９９年２期目には２３５万票という過去最高得票で再選した。
	　しかし、この選挙期間中に運動員だった女子大生からわいせつ行為を受けたとして告訴された。当初は「知事を侮辱するのか!」「まったくの事実無根」などと猛烈に否定したが同年１２月に在宅起訴され辞職。裁判では「すべてを失うのが怖くて」と一転、罪を認め翌年８月執行猶予付きの有罪判決を受けた。
	　０４年２月には大阪・なんばのワッハ上方で行われたイベントに出演して約４年ぶりに芸能活動を再開したものの、体調の悪化もあり、かつてのような明るさを振りまく機会はめぐってこなかった。
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		<content:encoded><![CDATA[	<P><FONT size=2>　昨年５月３日に死去した元大阪府知事で漫才師、横山ノックさん（享年７５）の遺骨が神戸市内の霊園に納骨されたことが２日、わかった。中咽頭がんで亡くなってちょうど１年、霊園は生まれ育った神戸を見渡せる六甲山近くだという。<BR><BR>　「漫画トリオ」を組んだ上岡龍太郎さん（６６）、タレント、青芝フック（７１）らによる一周忌のしのぶ会も４月末に行われた。上岡さんは、「ノックさんはお墓の前にはいない。千の風どころか、漫才の漫（万）の風になって、生き続けている」とスピーチしたという。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>&nbsp;</P>
	<P><BR></P>
	<P><IMG alt="" src="http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/attach/yokoyama-noxtuku.jpg"></P>
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	<DT><FONT size=2><STRONG>◆横山（よこやま）ノック　本名・山田勇</STRONG><BR>１９３２年（昭和７年）１月３０日生まれ、神戸市出身。神戸の米軍施設で通訳などを務めた後、５５年に宝塚新芸座に入団。秋田Ｂスケに弟子入りし秋田Ｋスケの名でデビュー。その後、吉本興業に入社し横山エンタツ氏に師事。当時ブームだったボクシング用語を取って横山ノックと改名し「横山ノック・アウト」で舞台に立った。５９年横山パンチ（のちの上岡龍太郎）横山フック（初代・故人、のちの青芝フックは２代目）と「漫画トリオ」を結成した。６８年７月、参院選全国区に無所属で立候補し初当選。漫才師出身のタレント議員第１号となった。同年、漫画トリオを解散したが政治家兼タレントとして活躍。９５年、参院議員を辞職し大阪府知事に当選。ＡＰＥＣなどを成功させ９９年には２３５万票の過去最高得票で当選。しかし、この選挙期間中の女子大生への強制わいせつ罪で辞職。００年８月、懲役１年６月、執行猶予３年の判決を受け、事実上タレント活動も自粛した。上岡と２人で司会を務めた土曜昼のバラエティー「ノックは無用」は７５年１月から（知事就任後は降板）９７年９月まで続く長寿番組だった。　家族は５８年に結婚した夫人と１男１女。</FONT></DT>
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</FONT></p>
	<P><FONT size=2>　前大阪府知事でタレントの横山ノックさん（本名・山田勇＝やまだ・いさむ）が３日午前７時１５分、中咽頭（いんとう）がんのため兵庫県西宮市の病院で亡くなった。７５歳だった。ノックさんは約３年前からがんを患い、１度は手術、治癒したものの昨年末ごろから再び体調を崩し入退院を繰り返していた。コント、司会で活躍し、６８年に参院全国区で当選して政界入り。９５年には大阪府知事選に当選し、９９年にわいせつ行為で在宅起訴されるまで４年８カ月務めた。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　ノックさんは３年ほど前に咽頭がんと診断され、一昨年には手術、放射線治療を受け１度は治癒していた。しかし心臓に持病を持っていたこともあり、昨年後半からは入退院を繰り返しながら病魔と闘ってきた。最後まで体調回復を目指してきたが、ついに力尽きた。闘病中もごく一部の関係者にしか入院先を知らせず、はっきりした病名も告げていなかった。最近では車いすに乗って移動する姿を目撃されたり、親しい友人には「（腹から）声が出ない」と漏らすこともあったという。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　親しい関係者によると、今年１月には横山たかし・ひろし、プリンら横山一門会が行われノックさんを含め約１５人が出席。その時は「横山一門はお前らが盛り上げてくれよ」と後輩らを叱咤（しった）激励した。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　最期は当初、ごく親しい関係者にしか知らされず、この日夜になって喪主の長男一貴さんがマスコミ各社にファクスで通達。「葬儀並びに告別式は親族だけの密葬とさせていただきますのでご理解を賜りたく、伏してお願い申し上げます」と送り、後日「お別れの会」を開くことを明かした。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　ノックさんは神戸市出身。戦後、米軍施設で通訳などしていたが５５年、芸人を志し宝塚新芸座に入団。秋田Ｂスケ氏に弟子入りし「秋田Ｏスケ・Ｋスケ」のＫスケとしてデビューした。その後、横山エンタツに再入門し５９年、上岡龍太郎らと漫画トリオを結成。「パンパカパーン、今週のハイライト」でおなじみのニュース漫才で爆発的人気を得た。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　６８年、参院選全国区に無所属で立候補し当選。タレント議員の草分け的存在としてお笑い、政治家を両立させ、その後は全国区２回、大阪選挙区で２回、参院選に当選。その髪形から自らを「タコ」と呼び、政治家となっても強烈なボケ役を徹底させ、テレビでも唇を突き出して体をくねらせ「タコ踊り」などと笑わせた。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　９５年４月には大阪府知事選に出馬し初当選した。無党派を旗印に、議会のほとんどが野党という状態だったが、その愛されるキャラクターで府民からの人気は高く９９年２期目には２３５万票という過去最高得票で再選した。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　しかし、この選挙期間中に運動員だった女子大生からわいせつ行為を受けたとして告訴された。当初は「知事を侮辱するのか!」「まったくの事実無根」などと猛烈に否定したが同年１２月に在宅起訴され辞職。裁判では「すべてを失うのが怖くて」と一転、罪を認め翌年８月執行猶予付きの有罪判決を受けた。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　０４年２月には大阪・なんばのワッハ上方で行われたイベントに出演して約４年ぶりに芸能活動を再開したものの、体調の悪化もあり、かつてのような明るさを振りまく機会はめぐってこなかった。<BR></FONT><BR></P>
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		<item>
		<title>川内康範さん死去</title>
		<link>http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/04/07/233/</link>
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		<pubDate>Mon,  7 Apr 2008 18:20:43 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;to&amp;#117;s&amp;#101;&amp;#64;to&amp;#109;u&amp;#114;ai.&amp;#106;p&gt;</author>
		
	<category>国内ニュース</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/04/07/233/</guid>
		<description>	　テレビ番組「月光仮面」の原作・企画や、ヒット曲「誰よりも君を愛す」「おふくろさん」などの作詞で知られた川内(かわうち)康範(こうはん)（本名・潔＝きよし）さんが６日早朝、亡くなった。８８歳だった。　北海道函館市生まれ。作家の中河与一に師事し、「天の琴」「生きる葦」などの小説を発表。　その後、映画の脚本を数多く手掛け、１９５８年から放送された人気テレビ番組「月光仮面」の原作者として、一躍有名になった。　作詞家としても活躍。６０年の日本レコード大賞を受けた松尾和子さんの「誰よりも君を愛す」、森進一さんの「花と蝶」「おふくろさん」、青江美奈さんの「恍惚のブルース」などのヒットを放った。　後年は政治評論にも乗り出し、機動隊の応援歌を作ったり、グリコ・森永事件で犯人の「かい人２１面相」に犯行中止を呼びかけたりして、話題を集めた。　また、２００６年のＮＨＫ紅白歌合戦で、森さんが「おふくろさん」の原曲にない歌詞を加えて歌ったことに反発。日本音楽著作権協会に対し、「作者の意図に反する無断改変に当たる」と通知し、同協会が改変版の利用を許可しないと発表する騒ぎとなった。 
	
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<P><FONT size=2>　テレビ番組「月光仮面」の原作・企画や、ヒット曲「誰よりも君を愛す」「おふくろさん」などの作詞で知られた川内(かわうち)康範(こうはん)（本名・潔＝きよし）さんが６日早朝、亡くなった。８８歳だった。<BR>　北海道函館市生まれ。作家の中河与一に師事し、「天の琴」「生きる葦」などの小説を発表。<BR><BR>　その後、映画の脚本を数多く手掛け、１９５８年から放送された人気テレビ番組「月光仮面」の原作者として、一躍有名になった。<BR><BR>　作詞家としても活躍。６０年の日本レコード大賞を受けた松尾和子さんの「誰よりも君を愛す」、森進一さんの「花と蝶」「おふくろさん」、青江美奈さんの「恍惚のブルース」などのヒットを放った。<BR><BR>　後年は政治評論にも乗り出し、機動隊の応援歌を作ったり、グリコ・森永事件で犯人の「かい人２１面相」に犯行中止を呼びかけたりして、話題を集めた。<BR><BR>　また、２００６年のＮＨＫ紅白歌合戦で、森さんが「おふくろさん」の原曲にない歌詞を加えて歌ったことに反発。日本音楽著作権協会に対し、「作者の意図に反する無断改変に当たる」と通知し、同協会が改変版の利用を許可しないと発表する騒ぎとなった。</FONT> </P>
	<P><IMG alt=川内康範 src="http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/attach/kawauti-yasunori.jpg"></P>
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        	</item>
		<item>
		<title>児童文学者の石井桃子さんが逝去</title>
		<link>http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/04/05/232/</link>
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		<pubDate>Sat,  5 Apr 2008 17:52:51 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;to&amp;#117;&amp;#115;&amp;#101;&amp;#64;t&amp;#111;&amp;#109;&amp;#117;&amp;#114;&amp;#97;i.&amp;#106;&amp;#112;&gt;</author>
		
	<category>国内ニュース</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/04/05/232/</guid>
		<description>	　「ノンちゃん雲に乗る」などの創作や「クマのプーさん」などの英米児童文学の名訳で知られる児童文学者の石井桃子（いしい・ももこ）さんが２日午後３時半、老衰のため死去した。１０１歳だった。葬儀は遺志で行われず、後日「お別れ会」を、東京都中野区江原町１の１９の１０の東京子ども図書館で開く（日取りは未定）。
	&amp;nbsp;１９０７年埼玉県生まれ。日本女子大英文科卒。菊池寛と知り合い、文芸春秋社に入社（３３年退社）。Ａ・Ａ・ミルンの原書に出合い、４０年「熊のプーさん」を刊行。４７年、創作の「ノンちゃん雲に乗る」を出し、ベストセラーになった。
	　翻訳はほかにマーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」、Ｊ・Ｍ・バリーの「ピーター・パンとウェンディ」、ディック・ブルーナの「ちいさなうさこちゃん」、ビアトリクス・ポターの「ピーターラビットのおはなし」など。
	編集者として戦前は新潮社の「日本少国民文庫」を担当、戦後は「岩波少年文庫」「岩波の子どもの本」に携わった。
	また、自宅を子どもたちのために開放して「かつら文庫」を開設。その活動の記録「子どもの図書館」は児童文庫の普及に大きな影響を与えた。東京子ども図書館も設立した。９３年、日本芸術院賞を受賞。
	９４年に自伝的小説「幻の朱い実」を著し、０３年には９６歳でミルンの自伝「今からでは遅すぎる」の翻訳を出すなど、旺盛に文学活動を続けていた。
	
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<P><FONT size=2>　「ノンちゃん雲に乗る」などの創作や「クマのプーさん」などの英米児童文学の名訳で知られる児童文学者の石井桃子（いしい・ももこ）さんが２日午後３時半、老衰のため死去した。１０１歳だった。葬儀は遺志で行われず、後日「お別れ会」を、東京都中野区江原町１の１９の１０の東京子ども図書館で開く（日取りは未定）。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>&nbsp;１９０７年埼玉県生まれ。日本女子大英文科卒。菊池寛と知り合い、文芸春秋社に入社（３３年退社）。Ａ・Ａ・ミルンの原書に出合い、４０年「熊のプーさん」を刊行。４７年、創作の「ノンちゃん雲に乗る」を出し、ベストセラーになった。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　翻訳はほかにマーク・トウェインの「トム・ソーヤーの冒険」、Ｊ・Ｍ・バリーの「ピーター・パンとウェンディ」、ディック・ブルーナの「ちいさなうさこちゃん」、ビアトリクス・ポターの「ピーターラビットのおはなし」など。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>編集者として戦前は新潮社の「日本少国民文庫」を担当、戦後は「岩波少年文庫」「岩波の子どもの本」に携わった。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>また、自宅を子どもたちのために開放して「かつら文庫」を開設。その活動の記録「子どもの図書館」は児童文庫の普及に大きな影響を与えた。東京子ども図書館も設立した。９３年、日本芸術院賞を受賞。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>９４年に自伝的小説「幻の朱い実」を著し、０３年には９６歳でミルンの自伝「今からでは遅すぎる」の翻訳を出すなど、旺盛に文学活動を続けていた。</FONT></P>
	<P><FONT size=2></FONT><FONT size=2><BR><IMG alt=石井桃子 src="http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/attach/isii-momoko.jpg"></FONT></P>
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        	</item>
		<item>
		<title>市川崑監督「お別れの会」</title>
		<link>http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/03/29/223/</link>
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		<pubDate>Sat, 29 Mar 2008 01:26:45 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;&amp;#116;o&amp;#117;&amp;#115;&amp;#101;&amp;#64;&amp;#116;o&amp;#109;&amp;#117;rai&amp;#46;&amp;#106;&amp;#112;&gt;</author>
		
	<category>国内ニュース</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/03/29/223/</guid>
		<description>	　２月に９２歳で亡くなった映画監督・市川崑さんのお別れの会が２９日、東京・世田谷区成城の東宝スタジオで開かれ、映画関係者ら約８５０人が故人をしのんだ。　お別れの会は、市川さんが金田一耕助シリーズなどを撮影したステージで行われ、約１万本の花を植えた祭壇に、トレードマークのたばこをくわえた市川さんの遺影が飾られた。　７８本に上る劇場公開作品や生前のスナップ写真を編集した１７分の追悼映像を上映。　これに続き、金田一シリーズで主演した石坂浩二さんが「監督の好きだった麻雀(マージャン)大会もサーロインステーキもない、こんな会は本当につまらないです。撮りたい映画の構想を練って、（天国で）お待ち下さい」と弔辞を述べた。　岸恵子さんが「細雪」や「悪魔の手毬(てまり)唄」への出演依頼を受けた時の逸話を披露した後、吉永小百合さん、中村敦夫さん、谷川俊太郎さんらが献花した。 
	
	　記録映画「東京オリンピック」や「ビルマの竪琴」など多くの名作を作った映画監督の市川崑（いちかわ・こん）さんが１３日午前１時５５分、肺炎のため都内の病院で亡くなった。９２歳。先月２４日に体調を崩し、入院していた。巨匠の死に衝撃を受ける映画関係者は多く、「細雪」「おはん」など多くの市川作品に出演した女優吉永小百合（６２）はベルリンで悲報に接し、絶句した。葬儀・告別式は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く予定。喪主は長男建美（たつみ）氏（６０）。
	　市川監督の遺体はこの日早朝、病院から都内の自宅に戻った。主人を失った自宅は一日中、悲しみに包まれるようにひっそりとしていた。監督は１月２４日に「息苦しい」と訴え、そのまま入院した。小康状態を保っていたが、長男建美さん、長女舞子さんら家族に見守られながら眠るように亡くなったという。穏やかな最期だったが家族のショックは大きく、多くの弔問の申し出を断り、対面したのはフジテレビ日枝久会長や一部の映画関係者だけだった。
	　くわえたばこがトレードマークで、１日４箱吸うほどのヘビースモーカーだったが、晩年は１箱半に減らしていた。好物の肉料理も減らし、リンゴを食べるなど食生活にも気を使っていた。健康管理を徹底していたのは、映画への情熱があったからだ。高齢であることもあって、新作現場では「あと何本取りたいですか」という質問がよく出た。しかし「手帳には２０本くらい企画が書いてある」と答えるなど、創作意欲は衰えることはなかった。最後の作品になった７６作目の「犬神家の一族」の試写会では、完成したばかりの作品を目の前に「もう少し長生きして、もうちょっとちゃんとした映画を作りたい」と笑わせた。
	　巨匠と言われることが多いが、言葉のイメージと違って、柔軟な創作体勢を常に保っていた。「犬神家－」リメークの時には、ＣＧを「時代のすう勢だから。若返ってたしなみたい」と話した。旺盛な実験精神は、６５年の「東京オリンピック」で存分に発揮された。ストップモーションなども多用し、記録か芸術かで物議を醸した一方、カンヌ映画祭で国際批評家賞を受賞するなど海外で高い評価を受けた。学校や地域で繰り返し上映されたことで、約１８００万人を動員した。記録は今でも破られておらず、日本映画史上最大のヒット作と言われている。
	　ディズニーアニメを見て映画界を志し、アニメーターとして修業を積んだ異色の経歴だ。「東京－」に代表されるドキュメンタリー、監督の名前を一躍知らしめた「ビルマの竪琴」や「野火」などの文芸作品だけでなく、恋愛もの、アニメなどあらゆるジャンルの作品を、妻で脚本家の和田夏十（なっと）さんと二人三脚で手掛けた。また、大作に取り組む一方、テレビの「木枯し紋次郎」などで斬新な映像美とさえた演出を見せた。８３年に夏十さんが亡くなった後も、四騎の会で活動した黒沢明監督らとの共同脚本を映画化した「どら平太」や「かあちゃん」などをヒットさせた。
	　映画人だけでなく、三谷幸喜や宮部みゆき、和田誠、椎名誠ら作家や画家など、創作者に影響を与え続けてきた。「映画は天職」と語り、衰えぬ創作意欲から、新作が最も待望される監督だった。
	
	◆市川崑（いちかわ・こん） １９１５年（大正４年）１１月２０日、三重県生まれ。東宝京都スタジオを経て、４８年に新東宝「花ひらく」で監督デビュー。５５年日活に移籍し、５６年「ビルマの竪琴」でベネチア映画祭サン・ジョルジョ賞。以後「日本橋」「炎上」「鍵」「おとうと」「破戒」などを発表。６５年「東京オリンピック」で新境地を開き、カンヌ映画祭国際批評家賞。７６年から「犬神家の一族」など金田一耕助シリーズを手掛ける。その後も「細雪」「どら平太」など話題作を製作。９４年文化功労者に選ばれ、０１年にモントリオール世界映画祭で功労賞を受賞した。ドラマでも活躍し、７２年の時代劇「木枯し紋次郎」の監修や監督も務めた。妻は東宝撮影所で出会った脚本家の和田夏十さん（８３年死去）で、監督作品の多くの脚本を手がけた。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<P><FONT size=2>　２月に９２歳で亡くなった映画監督・市川崑さんのお別れの会が２９日、東京・世田谷区成城の東宝スタジオで開かれ、映画関係者ら約８５０人が故人をしのんだ。<BR><BR>　お別れの会は、市川さんが金田一耕助シリーズなどを撮影したステージで行われ、約１万本の花を植えた祭壇に、トレードマークのたばこをくわえた市川さんの遺影が飾られた。<BR><BR>　７８本に上る劇場公開作品や生前のスナップ写真を編集した１７分の追悼映像を上映。<BR><BR>　これに続き、金田一シリーズで主演した石坂浩二さんが「監督の好きだった麻雀(マージャン)大会もサーロインステーキもない、こんな会は本当につまらないです。撮りたい映画の構想を練って、（天国で）お待ち下さい」と弔辞を述べた。<BR>　岸恵子さんが「細雪」や「悪魔の手毬(てまり)唄」への出演依頼を受けた時の逸話を披露した後、吉永小百合さん、中村敦夫さん、谷川俊太郎さんらが献花した。 </FONT></P>
	<P><FONT size=2><IMG alt=市川崑 src="http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/attach/itikawa-kon.jpg"></FONT></P>
	<P><FONT size=2>　記録映画「東京オリンピック」や「ビルマの竪琴」など多くの名作を作った映画監督の市川崑（いちかわ・こん）さんが１３日午前１時５５分、肺炎のため都内の病院で亡くなった。９２歳。先月２４日に体調を崩し、入院していた。巨匠の死に衝撃を受ける映画関係者は多く、「細雪」「おはん」など多くの市川作品に出演した女優吉永小百合（６２）はベルリンで悲報に接し、絶句した。葬儀・告別式は近親者のみで行い、後日、お別れの会を開く予定。喪主は長男建美（たつみ）氏（６０）。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　市川監督の遺体はこの日早朝、病院から都内の自宅に戻った。主人を失った自宅は一日中、悲しみに包まれるようにひっそりとしていた。監督は１月２４日に「息苦しい」と訴え、そのまま入院した。小康状態を保っていたが、長男建美さん、長女舞子さんら家族に見守られながら眠るように亡くなったという。穏やかな最期だったが家族のショックは大きく、多くの弔問の申し出を断り、対面したのはフジテレビ日枝久会長や一部の映画関係者だけだった。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　くわえたばこがトレードマークで、１日４箱吸うほどのヘビースモーカーだったが、晩年は１箱半に減らしていた。好物の肉料理も減らし、リンゴを食べるなど食生活にも気を使っていた。健康管理を徹底していたのは、映画への情熱があったからだ。高齢であることもあって、新作現場では「あと何本取りたいですか」という質問がよく出た。しかし「手帳には２０本くらい企画が書いてある」と答えるなど、創作意欲は衰えることはなかった。最後の作品になった７６作目の「犬神家の一族」の試写会では、完成したばかりの作品を目の前に「もう少し長生きして、もうちょっとちゃんとした映画を作りたい」と笑わせた。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　巨匠と言われることが多いが、言葉のイメージと違って、柔軟な創作体勢を常に保っていた。「犬神家－」リメークの時には、ＣＧを「時代のすう勢だから。若返ってたしなみたい」と話した。旺盛な実験精神は、６５年の「東京オリンピック」で存分に発揮された。ストップモーションなども多用し、記録か芸術かで物議を醸した一方、カンヌ映画祭で国際批評家賞を受賞するなど海外で高い評価を受けた。学校や地域で繰り返し上映されたことで、約１８００万人を動員した。記録は今でも破られておらず、日本映画史上最大のヒット作と言われている。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　ディズニーアニメを見て映画界を志し、アニメーターとして修業を積んだ異色の経歴だ。「東京－」に代表されるドキュメンタリー、監督の名前を一躍知らしめた「ビルマの竪琴」や「野火」などの文芸作品だけでなく、恋愛もの、アニメなどあらゆるジャンルの作品を、妻で脚本家の和田夏十（なっと）さんと二人三脚で手掛けた。また、大作に取り組む一方、テレビの「木枯し紋次郎」などで斬新な映像美とさえた演出を見せた。８３年に夏十さんが亡くなった後も、四騎の会で活動した黒沢明監督らとの共同脚本を映画化した「どら平太」や「かあちゃん」などをヒットさせた。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　映画人だけでなく、三谷幸喜や宮部みゆき、和田誠、椎名誠ら作家や画家など、創作者に影響を与え続けてきた。「映画は天職」と語り、衰えぬ創作意欲から、新作が最も待望される監督だった。</FONT></P>
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	<DT><FONT size=2><STRONG>◆市川崑（いちかわ・こん）</STRONG> <BR>１９１５年（大正４年）１１月２０日、三重県生まれ。東宝京都スタジオを経て、４８年に新東宝「花ひらく」で監督デビュー。５５年日活に移籍し、５６年「ビルマの竪琴」でベネチア映画祭サン・ジョルジョ賞。以後「日本橋」「炎上」「鍵」「おとうと」「破戒」などを発表。６５年「東京オリンピック」で新境地を開き、カンヌ映画祭国際批評家賞。７６年から「犬神家の一族」など金田一耕助シリーズを手掛ける。その後も「細雪」「どら平太」など話題作を製作。９４年文化功労者に選ばれ、０１年にモントリオール世界映画祭で功労賞を受賞した。ドラマでも活躍し、７２年の時代劇「木枯し紋次郎」の監修や監督も務めた。妻は東宝撮影所で出会った脚本家の和田夏十さん（８３年死去）で、監督作品の多くの脚本を手がけた。</FONT></DT>
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		<item>
		<title>お笑い芸人・マイウェイ昌彦氏死去　「マジカルダンス」で活躍</title>
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		<pubDate>Tue, 25 Mar 2008 23:04:36 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;&amp;#116;&amp;#111;&amp;#117;s&amp;#101;&amp;#64;&amp;#116;omurai.jp&gt;</author>
		
	<category>エンターテインメント</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/03/25/231/</guid>
		<description>	　お笑い芸人のマイウェイ昌彦氏（まいうぇい・まさひこ、本名・森山昌彦＝もりやま・まさひこ）１９日、脳幹部出血および脳室内出血のため死去した。４６歳。　マジックにダンスを組み合わせたコミカルな「マジカルダンス」で、浅草の東洋館などで活躍した。
&lt;br /&gt;
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><FONT size=2>　お笑い芸人のマイウェイ昌彦氏（まいうぇい・まさひこ、本名・森山昌彦＝もりやま・まさひこ）１９日、脳幹部出血および脳室内出血のため死去した。４６歳。<BR>　マジックにダンスを組み合わせたコミカルな「マジカルダンス」で、浅草の東洋館などで活躍した。<BR></FONT>
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		<item>
		<title>民放第一声、元ＣＢＣアナ　宇井昇さん焼死</title>
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		<pubDate>Mon, 24 Mar 2008 23:53:30 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;&amp;#116;ou&amp;#115;e&amp;#64;&amp;#116;&amp;#111;&amp;#109;u&amp;#114;&amp;#97;i.jp&gt;</author>
		
	<category>国内ニュース</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/03/24/230/</guid>
		<description>	　東京都江戸川区のアパートで１８日に起きた火災で死亡した住人の無職・宇井昇さん（８４）は、日本の民間ラジオ放送で第一声を発した中部日本放送（ＣＢＣ）の元アナウンサーだったことが２１日、分かった。　宇井さんは東京都墨田区生まれ。大蔵省を経て、１９５１年にＣＢＣへ入社。同社によると、同年９月１日午前６時半には民放初のラジオ放送で、担当アナウンサーとして「中部日本放送、ＪＯＡＲ」「皆さん、おはようございます」などと第一声を発した。　５９年にフリーとなり、８１年からはリクルートで、企業の社員研修を行うトレーナーとなる。０２年に退社した。　０７年の中日の日本一の際は「これまで『中日の日本一を見るまでは死ねない』と言っていた私ですが、思い残すことはありません」と話していた。
&lt;br /&gt;
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><FONT size=2>　東京都江戸川区のアパートで１８日に起きた火災で死亡した住人の無職・宇井昇さん（８４）は、日本の民間ラジオ放送で第一声を発した中部日本放送（ＣＢＣ）の元アナウンサーだったことが２１日、分かった。<BR><BR>　宇井さんは東京都墨田区生まれ。大蔵省を経て、１９５１年にＣＢＣへ入社。同社によると、同年９月１日午前６時半には民放初のラジオ放送で、担当アナウンサーとして「中部日本放送、ＪＯＡＲ」「皆さん、おはようございます」などと第一声を発した。<BR><BR>　５９年にフリーとなり、８１年からはリクルートで、企業の社員研修を行うトレーナーとなる。０２年に退社した。<BR><BR>　０７年の中日の日本一の際は「これまで『中日の日本一を見るまでは死ねない』と言っていた私ですが、思い残すことはありません」と話していた。</FONT>
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		<item>
		<title>元レピッシュ・上田現さんが死去　「ワダツミの木」作家</title>
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		<pubDate>Tue, 11 Mar 2008 00:10:47 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;&amp;#116;&amp;#111;u&amp;#115;e&amp;#64;t&amp;#111;&amp;#109;ura&amp;#105;&amp;#46;jp&gt;</author>
		
	<category>エンターテインメント</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/03/11/229/</guid>
		<description>	　元ちとせの「ワダツミの木」の作詞作曲などで知られる音楽プロデューサーの上田現さんが9日（日）午後5時15分、肺がんのため47歳の若さで死去したことが分かった。10日（月）、2002年まで所属したスカバンド・レピッシュの公式HP及び所属事務所の公式HPで発表されたもの。
&lt;br /&gt;
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><FONT size=2>　元ちとせの「ワダツミの木」の作詞作曲などで知られる音楽プロデューサーの上田現さんが9日（日）午後5時15分、肺がんのため47歳の若さで死去したことが分かった。10日（月）、2002年まで所属したスカバンド・レピッシュの公式HP及び所属事務所の公式HPで発表されたもの。<BR></FONT>
</p>
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        	</item>
		<item>
		<title>江藤慎一さん死去、中日、ロッテで活躍</title>
		<link>http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/03/01/228/</link>
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		<pubDate>Sat,  1 Mar 2008 00:35:06 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;&amp;#116;&amp;#111;us&amp;#101;&amp;#64;&amp;#116;o&amp;#109;&amp;#117;&amp;#114;ai.&amp;#106;&amp;#112;&gt;</author>
		
	<category>スポーツ</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/03/01/228/</guid>
		<description>	　中日、ロッテなどで強打者として活躍、史上ただ１人両リーグで首位打者に輝いた江藤慎一氏が０８年２月２８日午後３時３８分、肝臓がんのため都内の病院で死去した。７０歳だった。気迫をむきだしにするプレーから「闘将」と呼ばれ、７５年には太平洋（現西武）で兼任監督も務めた。中日時代の６４、６５年には２年連続して首位打者となり、巨人王貞治（現ソフトバンク監督）の３冠王を阻止。７１年にはロッテで首位打者を獲得した。
	　「闘将」と呼ばれた江藤氏も病魔の前に力尽きた。５年近い闘病生活に耐えてきた。実弟の江藤省三氏が見舞った際には、色紙に得意だったダルマの絵を添え「七転び八起き」と書いて贈ったという。そんな不屈の精神の持ち主も、２８日午後、ついに帰らぬ人になった。
	　５９年に社会人の日鉄二瀬からテスト生として中日入りした。捕手ながら「一塁もできます」と出場のチャンスをつかんで、打率２割８分１厘、１５本塁打。１年目からフル試合出場を果たした。同期の王貞治、１年前には長嶋茂雄が巨人入りしていた。そんな時代にプロ野球を代表する強打者となった。
	　６４、６５年には３冠王に挑んだ王の前に大きく立ちはだかった。６５年にはデッドヒートを演じ、最後の２試合で５割の数字を残した江藤が首位打者を獲得した。打率３割３分６厘。王は２年連続して本塁打、打点のタイトルをとりながら、打率は２度とも２位だった。その当時、江藤は「絶対に（首位打者は）オレがとる」と公言、その言葉通りの結果を出した。
	　生活ぶりも豪快で、酒のにおいをさせながら球場入りすることもあったという。大洋（現横浜）時代を知る関係者は「当時の遠征は旅館でしたが、朝起きると江藤さんが帰ってきてヤカンの水をがぶ飲みしていたのを思い出します」と話した。その一方で、バットを振ることは忘れなかった。実弟の省三氏も「いくら飲んでもバットだけは離さなかった。ガレージでよく振っていました」と当時を語った。
	　豪快なイメージの一方で細やかな配慮もできる人だった。山下大輔氏（日刊スポーツ評論家）は大洋に入団した７４年、１年間だけ江藤氏と一緒にプレー。「こっちは新人で、向こうはスーパースター。そんな関係なのに、ダイスケ、ダイスケといってかわいがってもらいました」と振り返った。退団後もＯＢ会で球団に対して「もっとＯＢを大事にしないといけない」と苦言を呈することもあった。
	　省三氏がロッテのコーチに就任した際（９５年）には、こんな言葉を送った。「人生の成功は十分の一」。１００％など無理、その１０分の１で十分、納得しなさいという意味だった。常に全力投球、フルスイングで試合に臨んだ人には意外な言葉といえるかもしれない。あのプレースタイルでも、まだ１０分の１だったのだろうか。「昭和の強打者」がまた１人いなくなった。
	&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
	◆江藤慎一（えとう・しんいち） １９３７年（昭１２）１０月１６日、熊本県生まれ。熊本商から日鉄二瀬を経て５９年中日入団。６４、６５年と２年連続首位打者を獲得。６９年に１度引退するも、７０年６月に社会人、中日で世話になった濃人監督のロッテへ移籍。翌７１年に３度目の首位打者に輝き、史上初の両リーグ首位打者となる。７２年に大洋へ移籍、７５年には太平洋で選手兼任監督。７６年はロッテでプレーしその年引退。ベストナイン６回、オールスター出場１１回。引退後は８５年、静岡県に日本野球体育学校を設立。巨人、中日でプレーした省三氏は実弟。 

&lt;br /&gt;
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<P><FONT size=2>　中日、ロッテなどで強打者として活躍、史上ただ１人両リーグで首位打者に輝いた江藤慎一氏が０８年２月２８日午後３時３８分、肝臓がんのため都内の病院で死去した。７０歳だった。気迫をむきだしにするプレーから「闘将」と呼ばれ、７５年には太平洋（現西武）で兼任監督も務めた。中日時代の６４、６５年には２年連続して首位打者となり、巨人王貞治（現ソフトバンク監督）の３冠王を阻止。７１年にはロッテで首位打者を獲得した。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　「闘将」と呼ばれた江藤氏も病魔の前に力尽きた。５年近い闘病生活に耐えてきた。実弟の江藤省三氏が見舞った際には、色紙に得意だったダルマの絵を添え「七転び八起き」と書いて贈ったという。そんな不屈の精神の持ち主も、２８日午後、ついに帰らぬ人になった。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　５９年に社会人の日鉄二瀬からテスト生として中日入りした。捕手ながら「一塁もできます」と出場のチャンスをつかんで、打率２割８分１厘、１５本塁打。１年目からフル試合出場を果たした。同期の王貞治、１年前には長嶋茂雄が巨人入りしていた。そんな時代にプロ野球を代表する強打者となった。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　６４、６５年には３冠王に挑んだ王の前に大きく立ちはだかった。６５年にはデッドヒートを演じ、最後の２試合で５割の数字を残した江藤が首位打者を獲得した。打率３割３分６厘。王は２年連続して本塁打、打点のタイトルをとりながら、打率は２度とも２位だった。その当時、江藤は「絶対に（首位打者は）オレがとる」と公言、その言葉通りの結果を出した。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　生活ぶりも豪快で、酒のにおいをさせながら球場入りすることもあったという。大洋（現横浜）時代を知る関係者は「当時の遠征は旅館でしたが、朝起きると江藤さんが帰ってきてヤカンの水をがぶ飲みしていたのを思い出します」と話した。その一方で、バットを振ることは忘れなかった。実弟の省三氏も「いくら飲んでもバットだけは離さなかった。ガレージでよく振っていました」と当時を語った。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　豪快なイメージの一方で細やかな配慮もできる人だった。山下大輔氏（日刊スポーツ評論家）は大洋に入団した７４年、１年間だけ江藤氏と一緒にプレー。「こっちは新人で、向こうはスーパースター。そんな関係なのに、ダイスケ、ダイスケといってかわいがってもらいました」と振り返った。退団後もＯＢ会で球団に対して「もっとＯＢを大事にしないといけない」と苦言を呈することもあった。</FONT></P>
	<P><FONT size=2>　省三氏がロッテのコーチに就任した際（９５年）には、こんな言葉を送った。「人生の成功は十分の一」。１００％など無理、その１０分の１で十分、納得しなさいという意味だった。常に全力投球、フルスイングで試合に臨んだ人には意外な言葉といえるかもしれない。あのプレースタイルでも、まだ１０分の１だったのだろうか。「昭和の強打者」がまた１人いなくなった。</FONT></P>
	<HR id=null><br />
<FONT size=2></p>
	<DT><STRONG>◆江藤慎一（えとう・しんいち）</STRONG> <BR>１９３７年（昭１２）１０月１６日、熊本県生まれ。熊本商から日鉄二瀬を経て５９年中日入団。６４、６５年と２年連続首位打者を獲得。６９年に１度引退するも、７０年６月に社会人、中日で世話になった濃人監督のロッテへ移籍。翌７１年に３度目の首位打者に輝き、史上初の両リーグ首位打者となる。７２年に大洋へ移籍、７５年には太平洋で選手兼任監督。７６年はロッテでプレーしその年引退。ベストナイン６回、オールスター出場１１回。引退後は８５年、静岡県に日本野球体育学校を設立。巨人、中日でプレーした省三氏は実弟。 </DT>
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		<title>渡辺五郎氏（中央競馬会元理事長）が死去</title>
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		<pubDate>Wed, 27 Feb 2008 00:03:30 +0900</pubDate>
		<author>touse &lt;&amp;#116;&amp;#111;u&amp;#115;e&amp;#64;t&amp;#111;m&amp;#117;&amp;#114;&amp;#97;i&amp;#46;jp&gt;</author>
		
	<category>スポーツ</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.touse-web.com/modules/wordpress3/archives/2008/02/27/227/</guid>
		<description>	渡辺五郎氏（わたなべ・ごろう＝中央競馬会元理事長）０８年２月２５日午前６時４５分、心不全のため東京都港区の病院で死去。８１歳。
&lt;br /&gt;
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><FONT size=2>渡辺五郎氏（わたなべ・ごろう＝中央競馬会元理事長）０８年２月２５日午前６時４５分、心不全のため東京都港区の病院で死去。８１歳。</FONT><!-- /+++++ コンテンツここまで +++++ -->
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