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2008年3月1日(土曜日)

江藤慎一さん死去、中日、ロッテで活躍

カテゴリー: - touse @ 00時35分06秒

 中日、ロッテなどで強打者として活躍、史上ただ1人両リーグで首位打者に輝いた江藤慎一氏が08年2月28日午後3時38分、肝臓がんのため都内の病院で死去した。70歳だった。気迫をむきだしにするプレーから「闘将」と呼ばれ、75年には太平洋(現西武)で兼任監督も務めた。中日時代の64、65年には2年連続して首位打者となり、巨人王貞治(現ソフトバンク監督)の3冠王を阻止。71年にはロッテで首位打者を獲得した。

 「闘将」と呼ばれた江藤氏も病魔の前に力尽きた。5年近い闘病生活に耐えてきた。実弟の江藤省三氏が見舞った際には、色紙に得意だったダルマの絵を添え「七転び八起き」と書いて贈ったという。そんな不屈の精神の持ち主も、28日午後、ついに帰らぬ人になった。

 59年に社会人の日鉄二瀬からテスト生として中日入りした。捕手ながら「一塁もできます」と出場のチャンスをつかんで、打率2割8分1厘、15本塁打。1年目からフル試合出場を果たした。同期の王貞治、1年前には長嶋茂雄が巨人入りしていた。そんな時代にプロ野球を代表する強打者となった。

 64、65年には3冠王に挑んだ王の前に大きく立ちはだかった。65年にはデッドヒートを演じ、最後の2試合で5割の数字を残した江藤が首位打者を獲得した。打率3割3分6厘。王は2年連続して本塁打、打点のタイトルをとりながら、打率は2度とも2位だった。その当時、江藤は「絶対に(首位打者は)オレがとる」と公言、その言葉通りの結果を出した。

 生活ぶりも豪快で、酒のにおいをさせながら球場入りすることもあったという。大洋(現横浜)時代を知る関係者は「当時の遠征は旅館でしたが、朝起きると江藤さんが帰ってきてヤカンの水をがぶ飲みしていたのを思い出します」と話した。その一方で、バットを振ることは忘れなかった。実弟の省三氏も「いくら飲んでもバットだけは離さなかった。ガレージでよく振っていました」と当時を語った。

 豪快なイメージの一方で細やかな配慮もできる人だった。山下大輔氏(日刊スポーツ評論家)は大洋に入団した74年、1年間だけ江藤氏と一緒にプレー。「こっちは新人で、向こうはスーパースター。そんな関係なのに、ダイスケ、ダイスケといってかわいがってもらいました」と振り返った。退団後もOB会で球団に対して「もっとOBを大事にしないといけない」と苦言を呈することもあった。

 省三氏がロッテのコーチに就任した際(95年)には、こんな言葉を送った。「人生の成功は十分の一」。100%など無理、その10分の1で十分、納得しなさいという意味だった。常に全力投球、フルスイングで試合に臨んだ人には意外な言葉といえるかもしれない。あのプレースタイルでも、まだ10分の1だったのだろうか。「昭和の強打者」がまた1人いなくなった。



◆江藤慎一(えとう・しんいち)
1937年(昭12)10月16日、熊本県生まれ。熊本商から日鉄二瀬を経て59年中日入団。64、65年と2年連続首位打者を獲得。69年に1度引退するも、70年6月に社会人、中日で世話になった濃人監督のロッテへ移籍。翌71年に3度目の首位打者に輝き、史上初の両リーグ首位打者となる。72年に大洋へ移籍、75年には太平洋で選手兼任監督。76年はロッテでプレーしその年引退。ベストナイン6回、オールスター出場11回。引退後は85年、静岡県に日本野球体育学校を設立。巨人、中日でプレーした省三氏は実弟。


2008年2月27日(水曜日)

渡辺五郎氏(中央競馬会元理事長)が死去

カテゴリー: - touse @ 00時03分30秒

渡辺五郎氏(わたなべ・ごろう=中央競馬会元理事長)08年2月25日午前6時45分、心不全のため東京都港区の病院で死去。81歳。


2008年2月18日(月曜日)

日本プロゴルフ界の父・中村寅吉さん死去

カテゴリー: - touse @ 00時29分01秒

 戦後のゴルフブームを巻き起こしたプロゴルファーの中村寅吉氏が08年2月11日午後4時15分、老衰のために神奈川県座間市の相模台病院で死去した。92歳だった。中村氏は「寅さん」の愛称で親しまれ、57年に埼玉・霞が関CCで行われたカナダ杯(現W杯)で優勝。引退後も指導者として多くのプロを育て、日本プロゴルフ界の発展に寄与してきた。自宅は神奈川県伊勢原市岡崎6696。葬儀、告別式は密葬。後日に日本プロゴルフ協会と日本女子プロゴルフ協会の合同葬(日時未定)が行われる。

 戦後のプロゴルフ界を背負った偉大なプロゴルファーが逝った。「中村寅吉」の名が国内外に知れ渡ったのは今から半世紀前、57年のカナダ杯だった。世界の強豪を相手に団体、個人の2冠を獲得。158センチと小柄な男が大男を小技で圧倒した優勝は、ゴルフ人気を一気に爆発させた。

 当時、ゴルフは不幸な時代だった。戦時中は外来ゲームとして肩身の狭い思いをし、戦後主なゴルフ場は進駐軍に接収された。ゴルフ界にとっての「空白の時代」を埋めたのが中村氏の優勝。最終日には当時最多記録の1万2000人のギャラリーが詰めかけ、ゴルフ人口は一気に増加した。所属する砧ゴルフ場は初心者で常に満員。中村氏の練習場所さえなくなる騒ぎだった。その後の高度経済成長で、ゴルフ場が次々と誕生。空前のブームを引っ張ったのが中村氏だった。
 「努力の人」だ。軍隊でも暇を見つけると棒きれで素振りをした。パットの練習は月明かりの下でも続けられた。20歳でプロに転向してから勝ち星に恵まれなかったが、練習と工夫でスコアを伸ばした。カナダ杯で勝てたのもパットの力。「ゴルフの神様」サム・スニードは「彼のパターは魔法のつえか」と驚がく。「パットの神様」は、翌年に日本人として戦後初めてマスターズに出場し、「ピート・ナカムラ」の愛称は世界に広まった。

 81年の関東プロシニアでは65で回り、公式戦初のエージシュートを達成。その後、公式戦だけで何と7回ものエージシュートを記録した。80歳を過ぎてコースに出ることはなくなったものの、ゴルフ場に通っては後輩のプレーを見守った。

 7年前に妻フミさんを亡くし、その後は多くの弟子に囲まれて過ごした。一番弟子の安田春雄は「昨年秋に会ったのが最後。悲しいというよりも、92歳までよく頑張ってくれた。オヤジがいなかったら、今のゴルフ界はないんだから」と話した。昨年11月にはPGA設立50周年で、表彰されたばかり。石川遼ら若手の登場で再び活気を取り戻しつつあるゴルフ界を見つめながら「寅さん」が逝った。1つの時代は終わった。

中村寅吉

◆中村寅吉(なかむら・とらきち)
1915年(大正4年)9月17日、横浜市生まれ。32年に程ケ谷CCにキャディーとして入社し、20歳でプロ転向。50年に関東オープンで初優勝し、日本オープン3回、日本プロ4回など多数のタイトルを獲得した。指導者として安田春雄、樋口久子ら多くのプロを育てたほか、日本ゴルフ界の発展にも尽力。85年から98年までは、男子ツアーで「日経カップ中村寅吉メモリアルトーナメント」が開催された。

2008年2月11日(月曜日)

日刊スポーツ評論家の鈴木保巳さん死去

カテゴリー: - touse @ 16時56分25秒

 元競輪選手で競輪解説者の草分けとしても活躍した鈴木保巳(すずき・やすみ)氏が08年2月9日午前4時33分、前橋市内の病院で亡くなった。76歳だった。鈴木氏はコーチとしても多くの名選手を育て、66年の現役引退後は日刊スポーツ新聞社の評論家として健筆を振るった。データを重視した鋭い予想は多くのファンを魅了。競輪界への辛口の提言でも支持を集めた。

  病床でもペンを離さなかった。少しでも体調が良ければレース実況を見ていた。「レースを見て、予想することが一番の薬なんだ」。そう話していた。

 鈴木さんは現役を離れてからの41年間、競輪評論家として、予想だけでなく競輪界へ辛口の提言を続けていた。それもすべて競輪への愛があったから。常に「おれの人生は競輪そのもの。競輪がすべて」と語っていた。

 06年冬に体調を崩し、07年2月に入院。現場への復帰を目指し、闘病生活を送っていたが、帰らぬ人となった。

 48年に前橋高野球部の主将として夏の甲子園大会に出場。翌49年の日大入学後も野球を続けていたが、競輪へ転身。51年9月に日本競輪学校1期生として京王閣でデビューした。A級1班(現在のS級1班)の選手として活躍する傍ら、現役中に「鈴木競輪道場」を開設。当時、乗り込み中心の練習だった競輪界に、科学的な理論やトレーニングを持ち込み、木村実成、福島正幸らスター選手を育て、競輪王国・群馬を築いた。

 長男一正さん(47)は父の跡を継ぎ、現役選手としてバンクを走っている。道子夫人もかつては女子選手として鳴らした競輪ファミリー。

 日刊スポーツ評論家時代は、選手1人1人の成績をノートに取り、最高上がりタイムやゴール時の時速で好不調を見極めるなど、それまでになかったきめ細かい予想を展開。繊細かつ大胆な予想はファンに絶大な人気を博した。テレビ解説者としても、分かりやすい解説で人気があった。

 売り上げが右肩上がりだった90年代前半から競輪界に警鐘を鳴らし続け、構造改革や施設の改善、ファンサービスなどの提言を続けた。「もう1度、競輪界に恩返しをしたい」というのが夢だったが…。

 11日、その棺は鈴木さんがこよなく愛したグリーンドーム前橋を1周する。そこから、きっと笑顔で天国へのペダルをこぐことだろう。


2008年2月2日(土曜日)

中畑成氏(日本女子サッカーリーグ評議会議長、日テレ女子チームGM)が死去

カテゴリー: - touse @ 10時57分47秒

中畑成氏(なかはた・せい=日本女子サッカーリーグ評議会議長、日テレ女子チームGM)08年1月30日午前7時23分、がん性腹膜炎のため都内の病院で死去、63歳。長野県出身。


2008年1月29日(火曜日)

百瀬博教さん(格闘プロデューサー)が死去

カテゴリー: - touse @ 23時37分34秒

作家で格闘プロデューサーの百瀬博教(ももせ・ひろみち)さん(67)が東京都港区の自宅マンションで意識を失い、病院に搬送後、死亡していたことが28日、分かった。
警視庁赤坂署によると、百瀬さんの知人が08年1月27日午前2時40分ごろ、百瀬さんの自宅マンションを訪れた。風呂場の湯船の中で百瀬さんは意識を失っており、すぐ119番通報。病院に運ばれたが同日午後3時半ごろ、死亡が確認された。
百瀬さんのホームページなどによると、百瀬さんは東京都台東区の出身。立大では相撲部に所属し、映画「シコふんじゃった。」のモデルでもある。赤坂のホテルニュージャパン地階のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」の用心棒も務めた。
親交のあった故石原裕次郎さんのボディーガードを買って出たこともあったという。3歳下のアントニオ猪木さんとは誕生日が同じ2月20日という縁もあって意気投合し、一緒に誕生会を開き、祝いあった仲でもあった。
総合格闘技イベント「PRIDE」のプロデューサーとしてもらつ腕を発揮した。著書に「プライドの怪人」「不良ノート」「空飛ぶ不良」「俺の裕次郎」などがある。


2008年1月24日(木曜日)

友景通忠氏(大相撲元十両栃忠)が死去

カテゴリー: - touse @ 23時33分52秒

友景通忠氏(ともかげ・みちただ=大相撲元十両栃忠)08年1月21日午後9時55分、上行結腸がんのため東京都墨田区の病院で死去、67歳。山口県出身。


2008年1月22日(火曜日)

加藤博一さん(野球評論家)が死去

カテゴリー: - touse @ 23時20分26秒

 阪神、大洋(現横浜)などで活躍した加藤博一氏(野球評論家)が08年1月21日、午後0時54分に肺がんのため横須賀市内の病院で死去した。56歳だった。加藤氏は85年には近藤貞雄監督(故人)の下で主に2番打者で活躍し、1番高木豊、3番屋鋪要と「スーパーカートリオ」を結成し一世風靡(ふうび)した。現役時代から「お笑いキャラ」として人気者だった。最近は指導者として現場復帰に意欲を見せていたが、夢はかなわなかった。23日に神奈川・逗子市内で通夜、24日に葬儀・告別式が営まれる。

 現役時代から「お笑いキャラ」で人気者だった加藤氏が突然、亡くなった。関係者によると、一昨年からがん治療で入退院を繰り返し闘病生活を続け、昨年2月には左肺を摘出。術後は仕事復帰したが、昨年6月ころから足に転移し歩くのも不自由な状態だった。最近は仕事も自粛し、現場に出る機会も減っていた。

 加藤氏の自宅に駆けつけて遺体と対面した佐々木主浩氏(日刊スポーツ評論家)は「安らかな顔で寝てるようだった。あの陽気な人が無言の帰宅なんて信じられない。ひと言では表せないくらいお世話になった人」と涙を流した。

 加藤氏は70年に西鉄ライオンズにテスト生で入団した。俊足を生かすため73年からスイッチヒッターに転向。76年には阪神に移籍し79年に江川卓(巨人)から初本塁打をマーク。翌80年には江川から28打数11安打で打率3割9分3厘、2本塁打と「怪物キラー」として活躍した。

 83年には大洋に移籍、85年には近藤貞雄監督の機動力野球で1番高木豊、2番加藤氏、3番屋鋪の「スーパーカートリオ」を結成。高木が42盗塁、加藤氏が48盗塁、屋鋪が58盗塁と、プロ野球史上唯一となる3人が40盗塁以上を記録した。

 現役時代から社会福祉活動には熱心で、よく体が不自由なファンを球場に招待していた。練習前、試合後には必ずそのファンにサインしていた。また施設に通う耳の不自由なファンたちを阪神戦に招待した際、バッターボックスに入る前にバットでヤリを突くポーズを見せて、加藤清正の「虎退治」と「加藤」をかけて喜ばせたエピソードがある。常に「人を喜ばせるのを意識した」人だった。

 引退後には明るい性格と巧みな話術で自ら「笑いがとれる解説者」とタレント性を発揮。お茶の間のファンも多かった。その一方で野球の知識や技術論も豊富で、佐々木氏やアストロズ松井稼頭央ら信奉する選手も多数いた。佐々木氏がマリナーズ時代にキャンプ中の球数制限で苦労する中、フォーム固めの一環でカーブを投げて調整する方法は同氏のアドバイスからだった。松井にはスイッチヒッターの練習法から、さらにメジャーの挑戦の際には代理人の選択、契約の詳細までアドバイスを送った。

 ただタレント性があるゆえに指導者としての道は厳しいものだったが、最近は現場復帰を熱望。「コーチとしてユニホームをもう1度、着たいな。後輩にいろいろとアドバイスできないのが、つらいんだよな。コソコソやるのはオレの性に合わん。メジャーも勉強できたし、日米ミックス型の指導者になりたい」と本音を漏らしていたが、願いはかなわなかった。

加藤博一

◆加藤博一(かとう・ひろかず)
1951年(昭26)10月9日、佐賀県多久市生まれ。多久工から西鉄に70年テスト入団。76年に阪神、83年に大洋へ、いずれもトレードで移籍。規定打席到達は80年(5位)と85年(26位)の2度だが、俊足好打の外野手として90年まで21年間現役でプレー。85年の39犠打はリーグトップ。86年オールスター出場(10打数3安打、1盗塁)。引退後の91年から07年まで解説者を17年続けていた。現役時代は178センチ、73キロ、右投げ両打ち。

2008年1月21日(月曜日)

オリックス雑賀忠夫球団社長が急死

カテゴリー: - touse @ 23時08分29秒

オリックス球団の雑賀忠夫代表取締役社長が08年1月19日午前4時54分、都内の北里研究所病院で胎児性肉腫のため急死した。62歳だった。
雑賀社長は1945年、神戸市生まれ。69年に現オリックスのオリエント・リースに入社。オリックス信託銀行取締役などを歴任し、07年1月にオリックス野球クラブ代表取締役に就任した。だが同年春に手術するなど入退院を繰り返していた。10月の高校生ドラフトには出席し、12月には出社していたが、年明けの今月4日に再入院していた。


2008年1月8日(火曜日)

丹羽春夫氏(元後楽園スタヂアム会長)が死去

カテゴリー: - touse @ 21時56分12秒

丹羽春夫氏(にわ・はるお=元後楽園スタヂアム〈現東京ドーム〉会長)08年1月5日午後9時14分、多臓器不全のため東京都千代田区の病院で死去、98歳。東京都出身。


2007年12月27日(木曜日)

小野忠彦氏(全日本大学野球連盟専務理事)が死去

カテゴリー: - touse @ 23時24分54秒

小野忠彦氏(おの・ただひこ=全日本大学野球連盟専務理事、関西学生野球連盟理事長)07年12月25日午後7時、胃がんによる多臓器不全のため東京都文京区の病院で死去、74歳。香川県出身。


2007年12月26日(水曜日)

藤井道夫氏(元プロ野球阪急選手)が死去

カテゴリー: - touse @ 18時37分57秒

藤井道夫氏(ふじい・みちお=元プロ野球阪急選手、同球団編成部長)07年12月23日午後3時40分、肺炎のため兵庫県西宮市の病院で死去、85歳。香川県出身。
50年に阪急入団。実働8年で外野手、三塁手として876試合に出場。引退後はスカウトを務め、盗塁王として名をはせた福本豊氏の獲得に尽力した。


2007年12月17日(月曜日)

五島哲さん(日本実業団陸上競技連合会長で東京急行電鉄取締役)が急死

カテゴリー: - touse @ 13時27分07秒

07年12月16日午前11時半ごろ、日本実業団陸上競技連合会長で東京急行電鉄取締役の五島哲さん(59)が岐阜市内のホテルの部屋で倒れているのを、全日本実業団対抗女子駅伝関係者が発見した。119番したが、消防署員が駆け付けた時にはすでに死亡していた。病死とみられる。岐阜北署などによると、五島さんは正午スタートの駅伝に行く予定だったが、時間になっても出てこないので、関係者が室内に入り発見した。


2007年12月16日(日曜日)

島野育夫阪神特命コーチが死去

カテゴリー: - touse @ 13時24分48秒

 阪神、中日で星野仙一監督(60)の参謀役を務めた島野育夫(しまの・いくお)氏が07年12月15日午後9時5分、胃がんのため西宮市内の病院で死去した。63歳だった。栃木県出身。
コーチ、2軍監督などを歴任し、今季は1、2軍を巡回する総合特命コーチとして阪神に在籍していたが、体調の悪化から入退院を繰り返していた。今季限りでユニホームを脱ぎ、アドバイザーとしてフロント入りする予定だった。

 球界の名参謀が帰らぬ人となった。阪神、中日で星野仙一監督を支えるコーチ職を務めてリーグ制覇に貢献した島野氏が、胃がんのため死去した。06年には阪神2軍監督に就任したが、4月から長期入院を余儀なくされた。胃の摘出手術などを経て、今季は総合特命コーチに就任。病と闘いながら、1軍ベンチやクラブハウスを訪れてナインを激励することもあったが、再びユニホームを着ることはかなわなかった。

 作新学院、明電舎を経て63年に中日に入団。68年に南海に移籍すると73年には61盗塁をマークするなど俊足の外野手として強豪チームのレギュラーを張った。阪神に移籍後の80年に現役を引退。その後は阪神と中日で1軍ヘッドコーチや2軍監督などの要職を務めた。卓越した野球理論と人心掌握術でチーム強化に携わった。

 特に北京五輪出場を決めた日本代表の星野監督との絆(きずな)の深さで知られる。星野中日監督時代をコーチとして支えた。さらに01年オフに星野監督が中日を退団、阪神の指揮を執ると、中日2軍監督だった島野氏は阪神に移った。星野=島野体制の2年目、03年にコーチとしてセ・リーグ制覇に貢献した。体調の悪化から今季限りで阪神のユニホームを脱ぎ、来季からはアドバイザーとしての活躍が期待されていた。

◆島野育夫(しまの・いくお)
1944年(昭19)3月30日、栃木県宇都宮市出身。間々田中−作新学院−明電舎を経て63年に中日入団。3年目の65年に1軍定着。68年に南海に移籍した。73年から3年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。76年に阪神移籍。80年に引退するまで現役18年間で1466試合に出場し、3029打数733安打で打率2割4分2厘、24本塁打、211打点、251盗塁。阪神守備走塁コーチ時代の82年大洋戦で判定をめぐり柴田猛コーチとともに審判に暴行、無期限出場停止となるが、翌年には解除。02年から星野阪神のヘッドコーチ、04年にフロント入りしたが、05年から総合コーチとして復帰。06年2軍監督、07年総合特命コーチに就任した。

2007年12月15日(土曜日)

井上忠行氏(元プロ野球セ・リーグ審判部副部長)が死去

カテゴリー: - touse @ 13時21分27秒

井上忠行氏(いのうえ・ただゆき=元プロ野球セ・リーグ審判部副部長)が07年12月15日午後6時55分、急性心筋こうそくのため、沖縄県豊見城市の病院で死去、72歳。福岡県出身。
57年に西鉄に入団し、64年までプレー。引退後、セ・リーグ審判員となり、87年に中日の新人・近藤真一投手が巨人を相手にプロ初登板でノーヒットノーランを達成した試合で球審を務めた。


2007年12月14日(金曜日)

花井悠さん(元西鉄外野手)が死去

カテゴリー: - touse @ 13時18分50秒

西鉄ライオンズで活躍し、日刊スポーツで評論家、朝日放送でキャスターなどを務めた花井悠(はない・ゆう=大阪日刊スポーツOB会長)氏が07年12月14日、敗血症のため死去した。75歳だった。
花井氏は数日前に集中治療室に入って、1度は持ち直していた。だが、この日早朝に容体が急変。家族にみとられ息を引き取った。花井氏は1932年(昭7)1月9日生まれ。岐阜高時代の48、49年に2年連続で甲子園出場し、49年はエースとして準優勝。慶応大で外野手に転向、日本石油を経て57年に西鉄ライオンズに入団。3年連続日本一に貢献するなど主力メンバーとして活躍した。64年に現役引退後は西鉄打撃コーチを務め、当時在籍した尾崎将司にプロゴルファー転向を勧めたことで知られている。
その後、少年野球の指導にも力を注ぐなど各方面で活躍。68年に大阪日刊スポーツ新聞社に入社、野球評論家として活躍していた。


2007年11月28日(水曜日)

真部一男氏(プロ棋士8段)が死去

カテゴリー: - touse @ 23時32分14秒

真部一男氏(まなべ・かずお=日本将棋連盟棋士8段、本名・池田一男=いけだ・かずお)07年11月24日午後9時25分、転移性肝しゅようのため東京都渋谷区の自宅で死去、55歳。東京都出身。
73年4段(プロ)となり、88年8段。順位戦のA級リーグに2期在籍。病気療養のため11月1日から長期休養していた。


2007年11月19日(月曜日)

リレハンメル五輪代表の待井寛さんが死亡

カテゴリー: - touse @ 01時48分52秒

94年のリレハンメル冬季五輪のフリースタイルスキー・エアリアルに出場した、福島県猪苗代町のホテル従業員待井寛さん(41)が死亡していたことが16日までに分かった。猪苗代署は自殺とみて調べている。
調べによると、07年11月15日朝、待井さんが朝の定例会議に出勤してこないのを心配した同僚が自宅を訪ね、待井さんの遺体を発見した。勤務していたホテルリステル猪苗代によると、待井さんは一軒家の自宅2階ベランダで首をつって死亡しており、遺書などは見つかっていないという。
待井さんは87年、同ホテルに入社。社員として選手をしていたが、98年の長野五輪選考に落ち、現役を引退。現在は独身で、ホテルが所有するスキー場の支配人的立場である、同ホテルのスポーツレジャー部係長の役職だった。県スキー連盟フリースタイルスキー部長も務めており、選手らに指導をすることもあったという。ホテルでは「最近1週間くらい元気がなかった気もするが、仕事上のトラブルもなく、まじめな性格だっただけにショックだ」と話している。


2007年11月15日(木曜日)

元ロッテの監督の稲尾和久氏が逝去

カテゴリー: - touse @ 17時48分39秒

 鉄腕が逝った。元西鉄ライオンズの投手で、同球団や太平洋クラブ、ロッテの監督を務めた稲尾和久氏が07年11月13日午前1時すぎ、悪性腫瘍(しゅよう)のため福岡市内の病院で死去した。享年70。稲尾氏は10月30日、福岡市内の病院に入院。検査を続けてきたが、この日、容体が急変し帰らぬ人となった。現役時代は日本シリーズ3連覇の立役者になるなど活躍し、ユニホームを脱いだ後も球界発展に寄与。しかし、最近は体調を崩し、マスターズリーグの福岡ドンタクズ監督、沢村賞の選考委員などの職から離れ、静養していた。

 突然の悲報だった。10月末に入院し、検査を続けていた稲尾氏だが、容体が急変し、13日午前1時すぎ、悪性腫瘍のため帰らぬ人となった。当初は1週間程度の検査入院の予定だったが、検査でも病名が特定できず、医師との相談の上、当面の仕事を控えることを決めていた。日刊スポーツの評論家活動をはじめ、地元福岡のテレビ局の出演、すでに開幕したマスターズリーグの福岡ドンタクズ監督の職、名球会の仕事などから離れていた。西鉄時代に「鉄腕」と呼ばれた右腕も病魔には勝てなかった。

 現役時代は、まさに伝説の連続だった。西鉄に入団した56年ルーキーイヤーで21勝、防御率1・06で新人王に輝くと、その年から3年連続日本一に貢献。58年の日本シリーズでは巨人に3連敗しながら、稲尾の4連投で4連勝。奇跡の逆転日本一の主役を演じ「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた。57年から3年連続30勝以上などの記録を打ち立て、プロ野球ファンの心に大きな印象を残した。連投して勝利する姿は、まさに「鉄腕」そのものだった。

 69年引退後は、西鉄、太平洋の監督を務め、78年から中日の投手コーチ、84年から3年間はロッテの監督も務めた。ユニホームを脱いでからは、評論家として野球界の発展に寄与。93年には野球殿堂入りを果たし、名球会の会長代行も務めるなど、精力的に活動を行っていた。

 昨年11月23日には、福岡市内のホテルで「プロ野球人生50周年記念パーティー」を開いた。ソフトバンク王監督ら詰め掛けた球界関係者ら約500人から祝福を受け「まだまだ元気でいたい。孫たちが野球選手になってほしいけど、せめてキャッチがきちんとできるくらいは頑張りたい」と話していた。

 また、今年10月2日、大分・別府市に「稲尾記念館」が開館。記念館が入っている別府市民球場の落成式に出席し、元気な姿を見せていた。記念館には寄贈のユニホームや表彰盾などが展示され、自らの投球フォームのブロンズ像を除幕した稲尾氏は「これを見た子供がまねしてくれれば」と喜んでいた。自分を育ててくれた別府市に「第2の稲尾」が育つような環境づくりにも全力を注いでいた。

 日本が生んだ鉄腕。「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれる伝説の投球を生んだ九州福岡の地を愛した右腕は、天国へと召され伝説の人となった。

稲尾和久

◆稲尾和久(いなお・かずひさ)
1937年(昭和12年)6月10日、大分県生まれ。別府緑ケ丘から56年に西鉄入団。いきなり1年目に21勝を挙げ、パ・リーグ記録の防御率1・06で新人王を獲得。56年から8年連続20勝以上を記録し、56〜58年は3年連続日本一に。巨人と対戦した58年の日本シリーズでは3連敗後に4連投で4連勝。逆転日本一に輝き、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた。57年にプロ野球記録のシーズン20連勝、61年にはプロ野球タイ記録となるシーズン42勝をマークした。主なタイトルはMVP2回、最多勝4回、最優秀防御率5回、ベストナイン5回。69年に現役引退。70〜74年に西鉄、太平洋監督、中日投手コーチを経て84〜86年にロッテ監督を務めた。93年に野球殿堂入り。


2007年10月21日(日曜日)

島田信広さん(元オートレーサー)が死去

カテゴリー: - touse @ 10時16分27秒

オート界のスーパースターとして90年代に活躍した島田信広(しまだ・のぶひろ)さんが07年10月18日午前10時35分、食道ガンのため千葉県成田市内の病院で亡くなった。57歳だった。島田さんは、73年、23歳でデビュー。オートレーサーになる前はサラリーマンで、脱サラ選手として話題となった。デビューから18年目の90年にスーパースター王座決定戦で優勝、初めてSGタイトルを手にした。これをきっかけに、次々にタイトルを獲得、90年代に14個のSGを制するなど一時代を築いた。99年2月15日には、49歳で全日本選抜に優勝。これは史上最年長のSG制覇で、現在まで破られていない。豪快なハンドルさばきがファンを魅了、白星を量産した。ケガにも強く、40歳代でスターダムに上り詰めたことから「鉄人」のニックネームでファンに愛された。
02年10月16日、体力の限界を理由に現役を引退。健康食品関係の代理店を経営、順調に事業を拡大していたが、今年4月末、体調を崩して入院。食道がんと診断され、闘病していた。
オートMVPを6回受賞(史上最多)したほか、日刊スポーツ新聞社制定のオート3賞では殊勲賞6回を筆頭に技能賞、特別賞など8回の栄誉に輝いた。

◆島田信広(しまだ・のぶひろ)
1950年(昭和25年)1月28日生まれ。長野県出身。73年デビューの11期生。船橋所属。通算勝利数は1292勝。SG優出45回(歴代1位)で14回優勝(歴代2位)。最年長SGV記録やSG完全V(2度)、SG3連覇(2度)など数々の記録を打ち立て、ファンからは“鉄人”と呼ばれた。02年10月16日のG1船橋オート祭を最後に現役を引退した。

2007年10月19日(金曜日)

中村長芳氏(ロッテ、太平洋クラブの元オーナー)が死去

カテゴリー: - touse @ 22時35分40秒

中村長芳氏(なかむら・ながよし=ロッテ、太平洋クラブの元オーナー)07年10月18日午前1時30分、心不全のため山口市の病院で死去、83歳。山口県出身。自宅は山口市泉都町。
岸信介元首相の秘書官を務めた後、71年にプロ野球ロッテのオーナーに就任。72年から太平洋クラブ(76年10月にクラウンライターに変更)のオーナーになり、78年に西武に球団を売却するまで経営にかかわった。


2007年10月18日(木曜日)

元五輪水泳選手でタレント、木原光知子さん死去

カテゴリー: - touse @ 23時36分43秒

東京五輪水泳日本代表で、引退後はタレントとしても活躍した木原光知子さんが07年10月18日午前1時25分、くも膜下出血のため神奈川県内の病院で死去した。59歳。13日に小学生に水泳を教えていた最中に倒れたという。木原さんは高校在学中の16歳で最年少選手として五輪出場を果たし、女子400メートルメドレーリレーのアンカーで4位入賞した。スポーツタレントの先駆けで、水泳の普及にも力を尽くした。

日本水泳連盟などによると、木原さんは13日、神奈川・平塚市の市民プールで「木原光知子親子水泳教室」を開催していた。小学生らに教えている最中に、水の中で気分が悪くなりそのまま倒れたという。意識はなく、くも膜下出血だった。平塚市民病院に運ばれ、約2時間後には1度は意識が戻った。しかし、その後病状が悪化。岡山から駆け付けた母綾子さん(89)の必死の看病を受けたが、回復することなく息を引き取った。

健康美タレントの代表的存在で、倒れるまでは精力的に活動していた。今月上旬には代表を務めるミミスイミングクラブ主催の水泳イベントで千葉県を訪れ、4500人の参加者の前であいさつをしたり、自らも泳ぐなど元気な姿を見せていた。週に1回、大阪市内のスイミングスクールでも教えていた。

10月更新したホームページには、来年の北京五輪に向け、アスリートたちに「スポーツ選手にとって24時間すべてが訓練の場」とつづっている。周囲の人々は「とても元気そうで、体調が悪いようには見えなかった」「今も毎日1キロ泳ぐことを日課としていたのに」と、突然の悲報にショックを受けている。

木原さんは岡山市立旭中学時代に頭角を現し、岡山・山陽女子高在学中に東京五輪に出場。女子400メートルメドレーリレーで自由形を泳ぎ、4位入賞に貢献した。日本新記録を何度も更新する実力とともに、愛くるしい笑顔と「ミミ」の愛称で親しまれ、一躍アイドル選手となった。

日大在学中に引退し、東レの水着モデルでタレントに転身。70年には、五輪を目指す水泳選手を描いたドラマ「金メダルへのターン!」に本人役で出演し、話題に。「ゆうひが丘の総理大臣」(78年)、NHK大河ドラマ「おんな太閤記」(81年)などのほか、人気バラエティー「クイズDEデート」の司会でも人気を集めた。

東レ役員や、各種スポーツ団体の理事を務め、水着ブランドや水泳教室「ミミスイミングクラブ」の運営など、ビジネス界でも成功を収めた。水泳を通して、芸能界、政財界にも幅広い人脈を持ち、他ジャンルの著名人とも親交が深かった。05年には日本水泳連盟理事に就任。自らも選手としてマスターズ水泳の普及、発展にも貢献。

木原光知子

◆木原光知子(きはら・みちこ)
本名・木原美知子。1948年(昭和23年)4月5日、兵庫県生まれ。高校在学中の64年、東京五輪に最年少スイマーとして出場。「ミミ」の愛称で人気者になった。競技を引退後、東レの水着モデルを務めタレントに転向。番組司会などでも活躍した。最近は、ミミスイミングクラブ(全国10カ所)の代表として水泳指導に取り組み、女性水泳大会「ウーマンズ・スイム・フェスティバル」を立ち上げ大会委員長に。05年4月、日本水泳連盟の理事に就任。


2007年10月7日(日曜日)

星川薫氏(元JRA調教師)が死去

カテゴリー: - touse @ 21時49分38秒

星川薫氏(ほしかわ・かおる=元JRA調教師)07年10月5日午前4時5分、病気のため滋賀県守山市の病院で死去。77歳。
星川師は73年に調教師免許を取得し、75年に開業。JRA通算成績4393戦410勝(94年フェブラリーSをチアズアトムで制するなど重賞8勝)を挙げ、01年に引退した。


2007年10月4日(木曜日)

大津守氏(元近鉄投手)が死去

カテゴリー: - touse @ 10時43分35秒

大津守氏(おおつ・まもる=元近鉄投手)が07年10月2日午前3時50分、心不全のため福岡市東区の病院で死去、76歳。福岡県出身。
50年、プロ野球西鉄結成に参加。55年の近鉄戦でノーヒットノーラン達成、58年に近鉄に移籍した。通算96勝112敗。


2007年9月29日(土曜日)

上福元勤氏(元巨人内野手)が死去

カテゴリー: - touse @ 10時39分52秒

元巨人内野手の上福元勤(かみふくもと・つとむ)氏が07年9月29日午後4時20分、直腸がんのため東京都内の病院で死去した。41歳だった。上福元氏は早実では荒木大輔(現西武コーチ)の1年後輩で82年に春、夏甲子園に三塁手として出場。ベスト8に進出した。
83年ドラフト6位で巨人入団。内野手として3年間在籍したが1軍出場はなかった。86年引退後もマスターズリーグに参加するなど活動を続けていた。


2007年9月25日(火曜日)

松永信夫氏(元サッカー日本代表選手)が死去

カテゴリー: - touse @ 18時06分29秒

松永信夫氏(まつなが・のぶお=元サッカー日本代表選手)07年9月25日午前8時、悪性リンパ腫のため静岡県藤枝市の病院で死去、85歳。静岡県出身。
日本代表でプレーし、日本が初めてW杯に挑んだ54年の韓国との予選第2戦に出場した。


2007年9月21日(金曜日)

横浜元オーナー中部慶次郎氏が死去

カテゴリー: - touse @ 22時53分35秒

90年から02年まで大洋球団、横浜ベイスターズのオーナーを務めた中部慶次郎氏(なかべ・けいじろう=元大洋漁業〈現マルハ〉社長)が07年9月17日、肺がんのため東京都内の病院で死去した。74歳。山口県出身。
中部氏は球団オーナー時代の92年11月、球団名を「横浜大洋ホエールズ」から企業名を外して「横浜ベイスターズ」と変えた。地域への密着度を強め、親会社に頼らない独立採算を目指すなど球界に新風を吹き込んだ。それ以後は球団経営は球団社長に任せ、ファンの立場でチームを応援した。98年、38年ぶりの日本一に導いた権藤監督が選手に対し「監督と呼ぶな」と命じた際には「では、権藤さんも私をオーナーではなく『慶ちゃん』と呼ぶように」と冗談を飛ばすなど、現場と気軽に接するオーナーだった。
02年に球団株を手放す際には、ニッポン放送への譲渡がオーナー会議で却下され、最終的にTBSに譲渡先が決まりオーナーを退任した。一時暗礁に乗り上げた際も「ファンとともに育ててきた大切な球団。株を売れば、あとは知らないというわけにはいかない」と、最後まで球団への愛情に変わりはなかった。


2007年9月15日(土曜日)

長船騏郎氏(全日本アマチュア野球連盟会長)が死去

カテゴリー: - touse @ 00時50分14秒

 長嶋ジャパンの生みの親で全日本アマチュア野球連盟会長の長船騏郎氏(おさふね・きろう)が07年9月10日午前11時2分、肺炎のため東京・港区の病院で死去していたことが13日、分かった。83歳。

 入院中だった長船氏の容態が悪化したのは、東京6大学秋季リーグ戦が開幕した8日のことだった。9日夜に急転、そのまま帰らぬ人になった。日本学生野球協会・内藤雅之事務局長(46)が最後に電話連絡をとった6日には「今日は歩く練習をしたんだけど、点滴の管がじゃまで転んでしまった」と元気に話をしていたという。8月3日に行った血液検査の結果が悪く入院したが、それ以来病状は快方に向かっており、今月上旬には退院を予定していた。突然の訃報(ふほう)に、球界関係者に衝撃が走った。

 半世紀以上にわたり、アマ野球界の発展に貢献してきた。早大を卒業後、一般企業を経て52年1月から日本学生野球協会に勤務した。以来55年間にわたって同協会事務局長などを歴任した。00年には日本代表編成委員会の初代会長に就任。04年アテネ五輪の長嶋ジャパン、さらに北京五輪に挑む星野ジャパンの生みの親として、プロアマの垣根を越えて球界発展のために尽力してきた。

 葬儀・告別式は約30人の親族に加えて、内藤事務局長ら連盟関係者2人だけが出席し、しめやかに営まれた。今後はお別れ会を行う予定。15日の東京6大学リーグは半旗を掲げる。

 酒、たばこはやらず、学生たちを交えて焼き肉や豚カツも愛した。近年はプールトレーニングなど体調管理に気を配っていた。「北京で日の丸が揚がるシーンを見て欲しかった」と内藤事務局長。日本野球連盟会長の山本英一郎氏、日本高野連名誉会長の牧野直隆氏に続き、アマ野球界の重鎮がこの世を去った。

◆長船騏郎(おさふね・きろう)
1924年(大13)1月30日、岡山県生まれ。天理中から早大に入学し、捕手としてベンチ入り。42年秋のリーグ戦後に戦渦が激しくなり、43年9月に繰り上げ卒業。日本ステンレス(現新日鉄住金ステンレス)日冷商事を経て、52年1月から日本学生野球協会に勤務し、70年に常務理事、05年からゼネラルディレクター。00年に日本代表編成委員会委員長、07年から全日本アマチュア野球連盟会長に就任した。

2007年8月30日(木曜日)

渡辺秀武氏(広島スカウト)が死去

カテゴリー: - touse @ 00時14分03秒

巨人、広島などで投手として活躍し、のちに広島スカウトを務めた渡辺秀武(わたなべ・ひでたけ)氏が07年8月25日午後10時25分、肺炎のため浜松市の病院で死去した。65歳だった。渡辺氏は静岡県出身。
渡辺氏は富士高、日本軽金属を経て63年に巨人入団。当初は気弱な投球から「メリーちゃん」と呼ばれたが、66年にアンダーハンドに改造して頭角を現し、13勝を挙げた。70年5月18日の広島戦(後楽園)ではノーヒットノーランを達成し、この年は23勝をマークした。71年巨人、74年日本ハム、77年大洋と3チームで開幕投手を務めた。
79年に広島に移籍後は中継ぎ投手として79、80年の連続日本一に貢献した。82年限りで現役を退き、以降は広島でスカウトを務め、新人王を取った山内、沢崎(ともに現コーチ)らを発掘した。


2007年8月19日(日曜日)

黒田一博氏(元南海外野手)が死去

カテゴリー: - touse @ 01時19分07秒

黒田一博氏(くろだ・かずひろ=元南海外野手、広島・黒田博樹投手の父)07年8月17日死去、82歳。
佐世保商から青木産業、八幡製鉄を経て49年、南海に入団。すぐにレギュラーになり「6番・センター」で51年からのリーグ3連覇に貢献した。54年に高橋に移籍し、トンボ、大映と移った。実働8年で777試合に出場し、打率2割4分6厘、247打点、32本塁打。引退後は大阪市でスポーツ店を開いた。


2007年8月18日(土曜日)

富岡喜平氏(自転車の元五輪代表選手)が死去

カテゴリー: - touse @ 09時51分33秒

富岡喜平氏(とみおか・きへい=自転車の元五輪代表選手)07年8月14日午前9時23分、肺炎のため青森県八戸市の病院で死去、75歳。八戸市出身。
52年のヘルシンキ五輪に出場。4キロメートル団体追い抜き競走で日本記録を樹立した。


2007年8月17日(金曜日)

酒井敏明氏(元プロ野球中日選手)が死去

カテゴリー: - touse @ 22時04分50秒

酒井敏明氏(さかい・としあき=元プロ野球中日選手)07年8月15日午前9時21分、脳内出血のため東京都三鷹市の病院で死去、73歳。三重県出身。

三重・桑名高から早稲田大に進み、東京六大学リーグで1955年秋に長嶋茂雄氏(立教大)らとともに捕手部門のベストナインに選ばれた。中日に6年間在籍し、通算301試合に出場、打率1割9分、3本塁打、36打点。


2007年8月16日(木曜日)

広島商投手、佃正樹氏が死去

カテゴリー: - touse @ 00時17分13秒

佃正樹(つくだ・まさき=夏の甲子園大会で優勝した広島商投手)氏が13日午後5時57分、食道がんのため東京都文京区の病院で死去、52歳。広島県出身。
達川(元広島監督)とバッテリーを組み1973年のセンバツで準優勝、夏の甲子園大会で優勝した。センバツ準決勝では怪物江川を擁する作新学院と対戦。投げ勝つとともに、自ら適時打を放ち江川の公式戦無失点を139イニングで止めるなど活躍した。


2007年8月13日(月曜日)

戦後初甲子園Vエースの平古場昭二さんが死去

カテゴリー: - touse @ 00時41分55秒

1946年(昭和21年)に開催された戦後初の全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)で、エースとして大阪・浪華商(現大体大浪商高)を優勝に導いた平古場昭二(ひらこば・しょうじ)さんが、香川県小豆島町福田の自宅で死去していたことが11日、分かった。79歳。小豆署の駐在所員が11日午前10時すぎ、亡くなっているのを発見した。平古場さんは1人暮らしで、事件性はないとみている。
平古場さんは46年大会の準決勝・東京高師付中戦で現在も9イニングの大会タイ記録19三振を奪うなど、4試合で61奪三振を記録した左腕。卒業後は慶大、社会人の鐘紡で活躍。


2007年8月11日(土曜日)

高橋栄一郎氏(山形県新庄市長、元南海投手)が死去

カテゴリー: - touse @ 00時31分43秒

高橋栄一郎氏(たかはし・えいいちろう=山形県新庄市長、元南海投手)07年8月9日午前1時35分、すい腫ようのため山形市の病院で死去、71歳。
プロ野球の巨人や南海(現ソフトバンク)で投手として活躍、プロ通算14勝。89年に新庄市長に初当選し、05年に5選を果たした。


2007年7月18日(水曜日)

吉井清氏(大阪帝拳ジム前会長)が死去

カテゴリー: - touse @ 22時46分47秒

ボクシング世界王者3人を育て上げた大阪帝拳ジム前会長の吉井清氏が07年07月17日午後5時15分、肝内胆管がんのため、大阪市内の病院で死去した。74歳。
吉井氏は64年にジムを創設し、元WBA、WBC世界スーパーフライ級王者渡辺二郎、元WBA世界バンタム級王者六車卓也、元WBC世界バンタム級王者辰吉丈一郎を育てた。
05年3月に会長職を勇退し、息子の寛氏に譲った。


2007年7月13日(金曜日)

中村雅彦氏(元平安高校野球部監督)が死去

カテゴリー: - touse @ 22時41分55秒

中村雅彦氏(なかむら・まさひこ=元平安高校野球部監督)07年7月12日午後5時10分、肝不全のため京都市西京区の病院で死去、69歳。京都市出身。


2007年7月8日(日曜日)

蔦行雄氏(プロ野球近鉄元投手)が死去

カテゴリー: - touse @ 21時55分42秒

蔦行雄氏(つた・ゆきお=プロ野球近鉄元投手)07年7月6日午後9時37分、胃がんのため奈良県内の病院で死去、69歳。兵庫県洲本市出身。
兵庫・洲本高から57年に近鉄入団。61年に開幕投手を務めるなど133試合に登板し16勝44敗、448・2/3投球回、防御率3・75の成績を残した。


2007年7月6日(金曜日)

山田弥助氏(元日本プロゴルフ協会副会長、元関西プロゴルフ協会会長)が死去

カテゴリー: - touse @ 05時41分16秒

山田弥助氏(やまだ・やすけ=元日本プロゴルフ協会副会長、元関西プロゴルフ協会会長)07年7月3日午後11時、脳こうそくのため大阪府枚方市の病院で死去、90歳。大阪府出身。


2007年6月16日(土曜日)

村上潤二さん(日本Sフェザー級11位)が心不全のため急死

カテゴリー: - touse @ 14時26分28秒

日本スーパーフェザー級11位の村上潤二さんが07年6月15日に心不全のため急死したことが19日、分かった。30歳だった。村上さんは5月19日、日本スーパーフェザー級王者の小堀佑介(角海老宝石)と東洋太平洋王座決定戦を兼ねて戦い、7回TKO負けしていた。この日は神奈川・相模原市内で告別式が営まれ、所属の八王子中屋ジムの中屋会長は「一生懸命頑張る選手で、後輩にも慕われていた」と突然の死が信じられない様子だった。


2007年6月15日(金曜日)

田沢八十彦氏(プロ野球東映、日拓〈現日本ハム〉元球団代表)が逝く

カテゴリー: - touse @ 14時24分06秒

田沢八十彦氏(たざわ・やそひこ=プロ野球東映、日拓〈現日本ハム〉元球団代表)07年6月14日午前10時53分、肺炎のため東京都目黒区の病院で死去、83歳。東京都出身。


2007年6月14日(木曜日)

鈴木悳夫氏(野球評論家、元プロ野球東映選手)が逝く

カテゴリー: - touse @ 23時31分43秒

鈴木悳夫氏(すずき・のりお=野球評論家、元プロ野球東映選手)07年6月14日午後11時50分、いん頭がんのため東京都杉並区の病院で死去、66歳。静岡市出身。

静岡・清水東高から早大を経て63年に東映(現日本ハム)入団、主に捕手としてプレーした。71年に現役引退後、日本ハム、ロッテなどでコーチを務めた。


2007年6月11日(月曜日)

横堀明氏(オートレース選手)が逝く

カテゴリー: - touse @ 07時37分00秒

横堀明氏(よこぼり・あきら=オートレース選手)07年6月10日、食道がんのため死去、57歳。群馬県出身、船橋所属。3530戦、1着277回。


2007年6月10日(日曜日)

関口清治氏(元近鉄監督)が逝く

カテゴリー: - touse @ 08時59分59秒

82年から2年間、近鉄の監督を務めた関口清治(せきぐち・きよはる)氏が07年6月9日早朝、たんをのどに詰まらせた窒息のため福岡市西区の病院で死去した。81歳だった。自宅は福岡市早良区南庄4の10の30の402。

台湾生まれの関口氏は、48年にテスト生として巨人に入団したが、肩を痛めて1年で退団。社会人野球の別府