友人葬
創価学会の葬儀がありました。
納棺は、学会員が主導者のなり進行していきます。
私は、お経はよくわかりませんが、題目に入ってから納棺作業をします。
南無妙法蓮華経・・・
部屋は狭く、親戚と学会員が共に唱和をされる・・
喪主は、お経を唱えない? 学会員ではなのだろうか?ほとんどの親戚が唱えているのだが。
遺体は交通事故で死亡。顔には損傷が綺麗なお顔でした。身体はやはりかなりの打撲の跡が目立った。内臓破裂で死亡されたようだ。
顔の損傷がないので、女性用のメイクを施し綺麗に仕上がりました。特にフェイスマッサージが親族に大変好評。
納棺花も親族と学会員の方々にしきみをたくさん入れていただきました。しきみの匂いはかなり強いので柩の中は、顔が見えないくらいいっぱいになりました。やはり顔は見えないので手直しして納めました。
ここで、少し友人葬のお話です。
———————————————–
僧侶に依存しない“友人葬は”こうして始まった
釈尊とその弟子たちは、在家の葬儀に関わらないのが原則であった。
経典によれば釈尊が執行した葬儀は父と養母のみだそうである。 弟子達も自身の父母や仲間の僧の葬儀以外は関わらなかったという。
釈尊の在世中、葬儀は在家信者によって行われ、僧侶は介入しなかったのだ。 したがって死者に引導を渡すとか、塔婆供養とか、位牌を作れなどという教義さえもなかったのである。
いつのまにか僧が葬儀の主導者となる。いつのまにか僧が妻帯し住み家を持つ。 習慣とはおそろしいものだ。
生きるためとはいえ“出家僧”が葬式をおのれの生業とし、金銭を当たり前のように要求するそして今、葬式をネタに創価学会員である信者を恫喝する。
いまもって学会員が“爪に火を灯すよう”にして供養した“寺に住み”である。
以来、大石寺の俗僧に葬儀等の導師を一切依頼せず、家族や友人達で儀式を施行するようになった。
今、学会員による友人葬は、草の根レベルで着実に浸透し、 仏教本来の葬儀のあり方として確実に定着している。
友人葬は体裁や見栄という形式的な葬儀に疑問を投げかけ、さらには「死」という厳粛な事実を単なる慣習のみで、形骸化し僧侶任せにしてきた事への反省が結実したものといえよう。
形式にとらわれず、常に励まし合い共に生きてきた同志が集い、親しかった友人や遺族と共に故人を偲びながら、故人の成仏を心から祈り、真心から送る。
これからの葬儀を考えるうえで、大事な原点となることだろう。
———————————————–
TrackBacks
TrackBack URL : http://www.touse-web.com/modules/wordpress4/archives/2006/11/25/54/trackback/
この投稿には、まだコメントが付いていません



