ニュースキャスターで元新聞記者の筑紫哲也(ちくし・てつや)氏が7日午後、肺がんのため、東京都内の病院で死去した。73歳。
平成19年5月、メーンキャスターを務めるTBSの報道番組「筑紫哲也NEWS23」の放送中に、自ら肺がんであることを告白。手術後の番組への復帰を約束し、闘病生活に入っていた。
昭和10年生まれ。早稲田大学を卒業後、朝日新聞社に入社。新聞記者として政治部や本土返還前の沖縄特派員、米国ワシントン特派員などを歴任。同社記者として昭和52年から約5年間、テレビ朝日系の報道番組「日曜夕刊!こちらデスク」の司会者を務め“異色の新聞記者”として話題を集めた。また、朝日新聞が発行していた週刊誌「朝日ジャーナル」で昭和59年から約3年間、編集長を務めた。編集長時代に手掛けた連載企画「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」などでは、さまざまなジャンルの一線で活躍する若者を取り上げ、「新人類」という言葉を生み出した。
平成元年に朝日新聞社を退職。当時、高い視聴率を得ていたテレビ朝日系の報道番組「ニュースステーション」に対抗してTBS系で同年から始まった報道番組「NEWS23」のメーンキャスターに抜擢(ばってき)された。
日本ゴルフツアー機構(JGTO)の初代会長を務め、今年3月に会長を退き名誉会長に就いていた島田幸作氏が、11月3日に兵庫県宝塚市内の病院で死去。死因は膵頭部癌とされ、享年64歳という若さだった。
島田氏はプロ通算15勝を挙げ、現役を退いた後は1989年から日本プロゴルフ協会の理事に就任。1999年にはトーナメント部門として独立したJGTOの初代チェアマンに就任し、2008年3月まで会長を務めていた。
青木功特別顧問は、広報を通して「プロ入り同級生で選手時代には良きライバル。色々と苦労をしたと思うが、オレは喧嘩相手がいなくなって寂しい。本当にお疲れ様でした」との弔辞を残している。
日本のムード歌謡の第一人者で、「有楽町で逢いましょう」「君恋し」「おまえに」などのヒット曲で知られる歌手のフランク永井さん(本名・永井清人=ながい・きよと)が先月27日、都内の自宅で死去していたことが1日、分かった。76歳だった。永井さんは85年に自殺を図り一命をとりとめたが、後遺症から療養に専念。表舞台から姿を消した。今夏、風邪をこじらせて入院し、回復が思わしくなかったという。この日、都内で葬儀・告別式が密葬で行われた。魅力のある低音で高度経済成長の日本に活気を与えた国民的歌手が逝った。
関係者によると、東京・世田谷の自宅で療養生活を送っていた永井さんは、今年の夏に風邪をこじらせて入院。その後の回復は思わしくなく、10月27日夕方に自宅で死去した。
歌手としてスター街道を歩んでいた永井さんは85年10月21日、東京・目黒区にあった自宅で首つり自殺を図った。夫人の発見が早かったことで一命を取りとめたが、医師から「脳死に近い状態」と診断され、会話が不自由になるなどの後遺症があった。その後は、リハビリによって体調は回復したが、記憶力の障害は残り、以後、表舞台に出ることはなかった。
夫人はリハビリに長年付き添ったが91年に自殺未遂。翌92年に離婚した。ここ数年は実姉の三根子さんと生活し、リハビリしながらの療養生活を送っていた。担当医が週に数回往診に訪れ、独力で歩くのは困難で車いすでの生活だったという。外の空気を吸うために、タクシーで外出したり、97年には箱根に旅行したりした。目黒区の自宅は既に売却し、世田谷区内の自宅で療養していたという。
永井さんは米軍キャンプのクラブ歌手を経て54年に日本ビクターと契約。55年「恋人よわれに帰れ」でデビューした。デビュー当時はジャズ楽曲だったが、歌手の故ディック・ミネさんや作曲家の故吉田正さんと出会いムード歌謡に転身した。57年、有楽町そごう(当時)のキャンペーンソングとなった「有楽町で逢いましょう」が大ヒット。低音ブームを巻き起こし、トップ歌手へと飛躍した。59年には故松尾和子さんとデュエットした「東京ナイト・クラブ」がヒットし、デュエット曲の定番として現在も歌い継がれている。
61年には「君恋し」で日本レコード大賞受賞。77年には「おまえに」もヒットし、57年から26年連続で年末のNHK紅白歌合戦に出場。当時の紅白最多出場者だった。
今年7月、東京・有楽町のマリオン前に永井さんの代表曲「有楽町で逢いましょう」の歌碑が建立された。ビクターの後輩演歌歌手ジェロ(27)が除幕式で同曲を熱唱。永井さんが残したヒット曲は、未来へと歌い継がれていく。
1972年に米公開されて大ヒットし、社会的に波紋を投げかけたポルノ映画『ディープ・スロート』のジェラルド・ダミアーノ監督が25日(土)、フロリダ州のフォート・マイヤーズで死去した。80歳。30日(木)、AP通信が伝えた。9月に脳卒中を患っていた。家族は息子と娘が1人ずつ。
『ディープ・スロート』は、ポルノ映画でありながら一般の興行で成功を収め、現代のハードコアなアダルト娯楽産業の立ち上げにひと役買った。たった2万5000ドルの製作費で、撮影は6日間だったが、60年代の性解放運動を経験したアメリカ人にとって性的概念を変える作品と言われ、文化的にも必見の映画とされた。またタイトルが、ウォーターゲート事件の匿名情報提供者と関連付けられ話題を呼んだ。
しかし、ニューヨークのタイムズ・スクエアで公開された当時は、メディアや憤慨する保守派の人々からの批判を浴びた。幾度も訴えを起こされたが、それが逆に作品のヒットにつながることになった。
ニューヨーク生まれで理容師だったダミアーノ監督は、海軍に所属した後、多くのアダルト映画を演出。息子のジェラルド・ダミアーノJr.氏は子どものころ、たびたび父の撮影現場に同伴したが、“肝心な”シーンの間は外へ連れ出されたという。
「父は私たちが思っている通りのフィルムメイカーであり、芸術家でした」と、ダミアーノJr.氏。「私たちは父の作品(ポルノ映画)を見ることを許されなかったが、父が映画監督だと知っていたし、そのことを誇りに思っていた」と思い出を語った。
2005年には、『ディープ・スロート』が当時社会に与えた影響を検証するドキュメンタリー映画『インサイド・ディープ・スロート』も製作された。
サザンオールスターズ・桑田佳祐(52)の実姉・岩本えり子(いわもと・えりこ)さんが、今月19日に死去していたことが22日、分かった。56歳。地元関係者によると死因はすい臓がんだという。通夜、葬儀・告別式は近親者のみで近く営まれる予定で、喪主は夫の岩本知世氏が務める。サザンのヒット曲「いとしのエリー」のタイトルは、えり子さんの名前が由来となっているとの説もあるほどで、桑田にとっては、あまりに早すぎる別れとなった。
最愛の姉の死。両親を亡くしている桑田にとっては、自身の子供以外で唯一残された肉親との別れとなった。
地元・茅ケ崎市の関係者によると、えり子さんの死因はすい臓がんだという。今年5月に雑誌の取材を受けた際、えり子さんも、がんであることを認めていた。
両親が映画館や飲食店などを経営していたため、子供のころの桑田は、えり子さんが母親代わりだった。大人になっても2人のきずなは深く、名曲「いとしのエリー」は、桑田が現夫人・原由子(51)のために作ったが、タイトルはえり子さんの名前が由来となっているという説もある。
桑田が音楽の道に進んだのも、ビートルズが好きだったえり子さんの影響が大きい。楽曲制作でも、96年まで20年以上をアメリカで過ごしたえり子さんに英語の歌詞について相談することもあった。実際に「LONELY WOMAN」や「黄昏のサマー・ホリデイ」、ソロ楽曲「HOLD ON(It’s Alright)」などで英語補作詞としてクレジットされている。
また、えり子さんは、桑田同様に地元・茅ケ崎への愛も深く、05年に市民団体を立ち上げ、環境問題に取り組んでいた。カリスマ性もあり、昨年4月には市長選への出馬が取りざたされた。だがそのころにはすでに体調が悪化していたようで、結局出馬はしなかった。サザンの活動休止の発表時期とえり子さんの闘病時期が重なっているが、所属事務所は関連を否定した。
フランスの俳優ギョーム・ドパルデューさんが、肺炎から起こる合併症のため急逝した。37歳だった。関係者によると、12日(日)夜にパリ西郊外の病院に運び込まれたという。
父親は、フランスを代表する映画俳優ジェラール・ドパルデュー。1991年に、父と共演した『めぐり逢う朝』で注目を集める。96年“Les Apprentis(英題:The Apprentices)”の熱演で、フランスのアカデミー賞に当たるセザール賞の最優秀新人賞を受賞した。
だが、同年に起こしたバイク事故の後遺症で、長年にわたる細菌感染に苦しんでいたが、03年に右足を切断。手術後、リハビリを経て『ランジェ公爵夫人』などに出演し、復帰を果たしていた。
その他の代表作には、『めぐり逢ったが運のつき』、『ポーラX』、『天使の肌』などがある。
俳優の峰岸徹(みねぎし・とおる、本名・知夫=ともお)さんが、肺がんのため11日夜に都内の病院で死去していたことが12日、明らかになった。65歳だった。峰岸さんは、今年4月にがんが発覚し入院加療していた。7月に仕事復帰したが、2週間ほど前に体調を崩し再入院。そのまま帰らぬ人となった。故人の遺志で葬儀・告別式は、親族のみの密葬で営まれ、後日「しのぶ会」が開かれる予定という。
鉄人レースに挑む体力をもってしても、がんを克服できなかった。
峰岸さんは11日夜、都内の病院で親族にみとられて静かに息を引き取った。関係者によると「とても安らかな最期だった」という。
今年4月。持病の腰痛の術前検査でがんが発見された。自身の公式HP上に7月12日付でその時の心境を「一瞬何が何だかわからず、全てが止まった」「私は腰の手術で入院したのだ。そんなバカなウソだろ」などと赤裸々につづっている。
出演を予定していた6月の舞台を「腰痛の悪化」を理由に降板した。その陰で必死にがんと闘った。5月から抗がん剤や放射線治療を受けた。「がんにいい」と教えられた秋田県・玉川温泉まで湯治に出向いたことも。経過は良好だった。7月にはがんを公表し、テレビ東京の旅番組で仕事復帰も果たした。現在、公開中の映画「おくりびと」にも出演している。
だが、2週間ほど前から体調が急変し入院。そのまま帰らぬ人となった。12日の未明に都内の自宅に無言で帰宅した。この日、自宅には、親交のあった映画監督の大林宣彦氏ら友人らが弔問に訪れた。
62年デビューの峰岸さんは数々の映画、ドラマ、舞台で活躍した。一方、最近はトライアスロンにのめり込み、00年から沖縄・宮古島の大会に参加。闘病中も「来年の大会には出るんだ」と希望を持ち続けた。
今月19日には大阪で開催される「肺がんフォーラム」で、患者の立場でゲスト講演する予定だった。HPでは「私は負けない、絶対に負けない」「私は絶対に負けません、癌なんかに…!!」と不屈の意気込みを示していた峰岸さんだったが、65歳の若さで天国へと旅立った。