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2008年10月31日

ダミアーニ監督逝去

1972年に米公開されて大ヒットし、社会的に波紋を投げかけたポルノ映画『ディープ・スロート』のジェラルド・ダミアーノ監督が25日(土)、フロリダ州のフォート・マイヤーズで死去した。80歳。30日(木)、AP通信が伝えた。9月に脳卒中を患っていた。家族は息子と娘が1人ずつ。
『ディープ・スロート』は、ポルノ映画でありながら一般の興行で成功を収め、現代のハードコアなアダルト娯楽産業の立ち上げにひと役買った。たった2万5000ドルの製作費で、撮影は6日間だったが、60年代の性解放運動を経験したアメリカ人にとって性的概念を変える作品と言われ、文化的にも必見の映画とされた。またタイトルが、ウォーターゲート事件の匿名情報提供者と関連付けられ話題を呼んだ。
しかし、ニューヨークのタイムズ・スクエアで公開された当時は、メディアや憤慨する保守派の人々からの批判を浴びた。幾度も訴えを起こされたが、それが逆に作品のヒットにつながることになった。

ジェラルド・ダミアーノ監督

ニューヨーク生まれで理容師だったダミアーノ監督は、海軍に所属した後、多くのアダルト映画を演出。息子のジェラルド・ダミアーノJr.氏は子どものころ、たびたび父の撮影現場に同伴したが、“肝心な”シーンの間は外へ連れ出されたという。
「父は私たちが思っている通りのフィルムメイカーであり、芸術家でした」と、ダミアーノJr.氏。「私たちは父の作品(ポルノ映画)を見ることを許されなかったが、父が映画監督だと知っていたし、そのことを誇りに思っていた」と思い出を語った。
2005年には、『ディープ・スロート』が当時社会に与えた影響を検証するドキュメンタリー映画『インサイド・ディープ・スロート』も製作された。

2008年10月24日

漫才師のリーガル秀才さん、死去

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漫才師で漫才協会監事のリーガル秀才氏(りーがる・しゅうさい、本名・高橋章=たかはし・あきら)が10日、心不全のため死去していたことが23日わかった。81歳。東京都出身。昭和27年に結成したコンビ「リーガル天才・秀才」で人気を博し、平成3年、紫綬褒章受章。16年に相方のリーガル天才さんが亡くなってからは漫談家として活動していた。

2008年10月23日

桑田佳祐、実姉死去

サザンオールスターズ・桑田佳祐(52)の実姉・岩本えり子(いわもと・えりこ)さんが、今月19日に死去していたことが22日、分かった。56歳。地元関係者によると死因はすい臓がんだという。通夜、葬儀・告別式は近親者のみで近く営まれる予定で、喪主は夫の岩本知世氏が務める。サザンのヒット曲「いとしのエリー」のタイトルは、えり子さんの名前が由来となっているとの説もあるほどで、桑田にとっては、あまりに早すぎる別れとなった。

最愛の姉の死。両親を亡くしている桑田にとっては、自身の子供以外で唯一残された肉親との別れとなった。
地元・茅ケ崎市の関係者によると、えり子さんの死因はすい臓がんだという。今年5月に雑誌の取材を受けた際、えり子さんも、がんであることを認めていた。
両親が映画館や飲食店などを経営していたため、子供のころの桑田は、えり子さんが母親代わりだった。大人になっても2人のきずなは深く、名曲「いとしのエリー」は、桑田が現夫人・原由子(51)のために作ったが、タイトルはえり子さんの名前が由来となっているという説もある。
桑田が音楽の道に進んだのも、ビートルズが好きだったえり子さんの影響が大きい。楽曲制作でも、96年まで20年以上をアメリカで過ごしたえり子さんに英語の歌詞について相談することもあった。実際に「LONELY WOMAN」や「黄昏のサマー・ホリデイ」、ソロ楽曲「HOLD ON(It’s Alright)」などで英語補作詞としてクレジットされている。
また、えり子さんは、桑田同様に地元・茅ケ崎への愛も深く、05年に市民団体を立ち上げ、環境問題に取り組んでいた。カリスマ性もあり、昨年4月には市長選への出馬が取りざたされた。だがそのころにはすでに体調が悪化していたようで、結局出馬はしなかった。サザンの活動休止の発表時期とえり子さんの闘病時期が重なっているが、所属事務所は関連を否定した。

2008年10月14日

仏俳優ギョーム・ドパルデュー急逝、37歳

フランスの俳優ギョーム・ドパルデューさんが、肺炎から起こる合併症のため急逝した。37歳だった。関係者によると、12日(日)夜にパリ西郊外の病院に運び込まれたという。
父親は、フランスを代表する映画俳優ジェラール・ドパルデュー。1991年に、父と共演した『めぐり逢う朝』で注目を集める。96年“Les Apprentis(英題:The Apprentices)”の熱演で、フランスのアカデミー賞に当たるセザール賞の最優秀新人賞を受賞した。
だが、同年に起こしたバイク事故の後遺症で、長年にわたる細菌感染に苦しんでいたが、03年に右足を切断。手術後、リハビリを経て『ランジェ公爵夫人』などに出演し、復帰を果たしていた。
その他の代表作には、『めぐり逢ったが運のつき』、『ポーラX』、『天使の肌』などがある。

ギョーム・ドパルデュー

2008年10月13日

峰岸徹さん 肺ガンのため死去 65歳

俳優の峰岸徹(みねぎし・とおる、本名・知夫=ともお)さんが、肺がんのため11日夜に都内の病院で死去していたことが12日、明らかになった。65歳だった。峰岸さんは、今年4月にがんが発覚し入院加療していた。7月に仕事復帰したが、2週間ほど前に体調を崩し再入院。そのまま帰らぬ人となった。故人の遺志で葬儀・告別式は、親族のみの密葬で営まれ、後日「しのぶ会」が開かれる予定という。
鉄人レースに挑む体力をもってしても、がんを克服できなかった。
峰岸さんは11日夜、都内の病院で親族にみとられて静かに息を引き取った。関係者によると「とても安らかな最期だった」という。
今年4月。持病の腰痛の術前検査でがんが発見された。自身の公式HP上に7月12日付でその時の心境を「一瞬何が何だかわからず、全てが止まった」「私は腰の手術で入院したのだ。そんなバカなウソだろ」などと赤裸々につづっている。
出演を予定していた6月の舞台を「腰痛の悪化」を理由に降板した。その陰で必死にがんと闘った。5月から抗がん剤や放射線治療を受けた。「がんにいい」と教えられた秋田県・玉川温泉まで湯治に出向いたことも。経過は良好だった。7月にはがんを公表し、テレビ東京の旅番組で仕事復帰も果たした。現在、公開中の映画「おくりびと」にも出演している。
だが、2週間ほど前から体調が急変し入院。そのまま帰らぬ人となった。12日の未明に都内の自宅に無言で帰宅した。この日、自宅には、親交のあった映画監督の大林宣彦氏ら友人らが弔問に訪れた。
62年デビューの峰岸さんは数々の映画、ドラマ、舞台で活躍した。一方、最近はトライアスロンにのめり込み、00年から沖縄・宮古島の大会に参加。闘病中も「来年の大会には出るんだ」と希望を持ち続けた。
今月19日には大阪で開催される「肺がんフォーラム」で、患者の立場でゲスト講演する予定だった。HPでは「私は負けない、絶対に負けない」「私は絶対に負けません、癌なんかに…!!」と不屈の意気込みを示していた峰岸さんだったが、65歳の若さで天国へと旅立った。

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2008年10月 6日

元参院議長の土屋義彦氏死去

元参院議長で埼玉県知事を3期11年務めた土屋義彦(つちや・よしひこ)氏が死去した。82歳だった。東京都出身。
中央大商学部を卒業後、叔父の大正製薬社長、故上原正吉参院議員の秘書に。1959年、埼玉県議に初当選。65年参院選に自民党から出馬、以後5期連続で当選し、79年に環境庁長官として初入閣、88年には参院議長に就いた。
91年10月に参院議長を退任し、92年6月の埼玉県知事選に出馬し当選、長期にわたる革新県政に終止符を打った。96年から、辞職した2003年まで全国知事会会長も務めた。
知事在任中は、さいたま新都心計画や、サッカーのワールドカップ会場となった埼玉スタジアムなどの建設を推進。一方で、親族の介入も指摘され、同県政は「土屋王国」とも称された。
03年7月には、自らの資金管理団体をめぐる政治資金規正法違反事件で長女が逮捕されたことを受けて引責辞任。自身も特捜部の事情聴取を受けたが、起訴猶予処分となり、政界から身を引いていた。土屋品子衆院議員は次女。

2008年10月 4日

元NHKディレクター吉田直哉さん死去

大河ドラマ「太閤記」、ドキュメンタリー「未来への遺産」など数々の話題作を手がけた元NHKディレクターの吉田直哉(よしだ・なおや)さんが9月30日午前3時45分、肺炎のため亡くなった。77歳だった。
東大文学部を卒業後、1953年にテレビ放送が始まった直後のNHKに入局。「日本の素顔」「明治百年」、大河ドラマ「源義経」「樅(もみ)ノ木は残った」なども担当した。文筆でも才能を発揮し、小説「ジョナリアの噂(うわさ)」が88年、芥川賞候補になった。「発想の現場から」など、豊富な経験を踏まえた鋭い映像論も次々に発表。武蔵野美大教授のほか、2004年から2年間、読売新聞読書委員も務めた。