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ロイター通信によると、ヘレン・ケラーの生涯を描いた戯曲「奇跡の人」の作者として知られる米劇作家、ウィリアム・ギブソン氏が25日、マサチューセッツ州ストックブリッジの自宅で死去した。94歳だった。
ニューヨーク市生まれ。1959年に、目と耳が不自由で話すこともできない三重苦を、家庭教師アン・サリバンとの交流と葛藤(かっとう)の末に乗り越えるヘレン・ケラーを描いた「奇跡の人」でトニー賞演劇部門作品賞を獲得した。同作品は62年に映画化され、サリバンを演じたアン・バンクロフトがアカデミー主演女優賞を獲得したほか、ギブソン氏自身もノミネートされた。
しかし、サリバンがケラーの手に井戸水をかけ、「ウオーター」との言葉を理解させ、ケラーが初めて発声したとのエピソードは創作で「過剰な演出」と批判も受けた。

大相撲の元大関でタレントKONISHIKI(44)の実兄で、元プロレスラーのアノアロ・アティサノエさんが23日午前9時(日本時間24日午前4時)にハワイの病院で心臓発作のため亡くなった。51歳だった。葬儀は決まっていない。
150キロの巨体を誇ったアティサノエさんは1984年9月に大阪でアントニオ猪木と異種格闘技戦(10回戦)で対戦。ガッツ石松から伝授されたボクシングテクニックを発揮できず、猪木のバックドロップを受けて5回25秒に片エビ固めで敗れた。新日本プロレスに所属したが、目立った活躍はできず、関係者によると、約5年前から2日に1回の腎臓透析を受けていたという。

「長い髪の少女」「愛する君に」などのヒットで知られるGS(グループ・サウンズ)「ザ・ゴールデンカップス」のリーダーでボーカル、デイブ平尾さん(本名・平尾時宗)が10日、死去したことがわかった。63歳だった。
平尾さんは食道がんが発見され、療養中だった。

デイブ平尾

お笑いグループ・チャンバラトリオのメンバーである前田竹千代さん(本名:宮川定徳)が9日(日)午前9時22分、かねてより入院中だった大阪市内の病院で胃がんのため死去した。享年55歳。
前田さんは1952年12月23日生まれで大分県出身。76年にチャンバラトリオに入門、79年に前田犬千代と漫才コンビ・前田犬千代・竹千代を結成し、81年には同コンビで第11回NHK上方漫才コンテスト優秀賞を受賞した。その後、94年にチャンバラトリオにメンバーとして加入した。

前田竹千代

日本ゴルフツアー機構(JGTO)の初代会長を務め、今年3月に会長を退き名誉会長に就いていた島田幸作氏が、11月3日に兵庫県宝塚市内の病院で死去。死因は膵頭部癌とされ、享年64歳という若さだった。
島田氏はプロ通算15勝を挙げ、現役を退いた後は1989年から日本プロゴルフ協会の理事に就任。1999年にはトーナメント部門として独立したJGTOの初代チェアマンに就任し、2008年3月まで会長を務めていた。
青木功特別顧問は、広報を通して「プロ入り同級生で選手時代には良きライバル。色々と苦労をしたと思うが、オレは喧嘩相手がいなくなって寂しい。本当にお疲れ様でした」との弔辞を残している。

日本のムード歌謡の第一人者で、「有楽町で逢いましょう」「君恋し」「おまえに」などのヒット曲で知られる歌手のフランク永井さん(本名・永井清人=ながい・きよと)が先月27日、都内の自宅で死去していたことが1日、分かった。76歳だった。永井さんは85年に自殺を図り一命をとりとめたが、後遺症から療養に専念。表舞台から姿を消した。今夏、風邪をこじらせて入院し、回復が思わしくなかったという。この日、都内で葬儀・告別式が密葬で行われた。魅力のある低音で高度経済成長の日本に活気を与えた国民的歌手が逝った。
関係者によると、東京・世田谷の自宅で療養生活を送っていた永井さんは、今年の夏に風邪をこじらせて入院。その後の回復は思わしくなく、10月27日夕方に自宅で死去した。
歌手としてスター街道を歩んでいた永井さんは85年10月21日、東京・目黒区にあった自宅で首つり自殺を図った。夫人の発見が早かったことで一命を取りとめたが、医師から「脳死に近い状態」と診断され、会話が不自由になるなどの後遺症があった。その後は、リハビリによって体調は回復したが、記憶力の障害は残り、以後、表舞台に出ることはなかった。
夫人はリハビリに長年付き添ったが91年に自殺未遂。翌92年に離婚した。ここ数年は実姉の三根子さんと生活し、リハビリしながらの療養生活を送っていた。担当医が週に数回往診に訪れ、独力で歩くのは困難で車いすでの生活だったという。外の空気を吸うために、タクシーで外出したり、97年には箱根に旅行したりした。目黒区の自宅は既に売却し、世田谷区内の自宅で療養していたという。
永井さんは米軍キャンプのクラブ歌手を経て54年に日本ビクターと契約。55年「恋人よわれに帰れ」でデビューした。デビュー当時はジャズ楽曲だったが、歌手の故ディック・ミネさんや作曲家の故吉田正さんと出会いムード歌謡に転身した。57年、有楽町そごう(当時)のキャンペーンソングとなった「有楽町で逢いましょう」が大ヒット。低音ブームを巻き起こし、トップ歌手へと飛躍した。59年には故松尾和子さんとデュエットした「東京ナイト・クラブ」がヒットし、デュエット曲の定番として現在も歌い継がれている。
61年には「君恋し」で日本レコード大賞受賞。77年には「おまえに」もヒットし、57年から26年連続で年末のNHK紅白歌合戦に出場。当時の紅白最多出場者だった。
今年7月、東京・有楽町のマリオン前に永井さんの代表曲「有楽町で逢いましょう」の歌碑が建立された。ビクターの後輩演歌歌手ジェロ(27)が除幕式で同曲を熱唱。永井さんが残したヒット曲は、未来へと歌い継がれていく。

フランク永井

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