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2009年8月27日

九谷焼作家、人間国宝の徳田八十吉さん死去

徳田八十吉

九谷焼の人間国宝で、色絵の世界に新風を吹き込んだ陶芸家の徳田八十吉(とくだ・やそきち<本名・正彦=まさひこ>)さんが26日、間質性肺炎のため死去した。75歳。

小松市生まれ。祖父の初代八十吉に九谷焼の伝統的な上絵釉薬の調合と絵付けを、日展作家で二代目の父からは現代陶芸を学んだ。 伝統技法と創意工夫や革新性の融合は、独自の表現様式「耀彩(ようさい)などに花開いた。花や鳥の絵柄が多い九谷焼を、青、緑、黄、紫の4彩を基調に色の微妙な濃淡だけで表現。現代感覚あふれる美の世界を確立した。

1977年に日本伝統工芸展出品作「耀彩鉢」で最優秀賞の日本工芸会総裁賞を受賞した。88年に三代八十吉を襲名。97年に重要無形文化財「彩釉磁器」保持者(人間国宝)に認定された。

2009年8月26日

細川隆一郎さん90歳=評論家、元毎日新聞政治部長

細川隆一郎

 細川隆一郎さん90歳(ほそかわ・りゅういちろう=政治評論家、元毎日新聞社政治部長)25日、老衰のため死去。葬儀・告別式は未定。喪主は長男隆三(りゅうぞう)さん。

1942年毎日新聞社に入社。主に政治記者の道を歩み神戸支局長、政治部長、東京本社編集局次長、中部本社編集局長などを歴任した。政治部長在職中の67年、佐藤内閣下での「黒い霧」と呼ばれた政治腐敗事件のキャンペーン報道で、日本新聞協会賞を受賞。73年に退社後は政治評論家に転身、テレビ、ラジオなど幅広く活躍し、歯に衣(きぬ)着せぬ語り口で人気を呼んだ。

2009年8月17日

難波昭二郎さん74歳=元プロ野球選手

 難波昭二郎さん74歳(なんば・しょうじろう=元プロ野球巨人、西鉄内野手)14日、心不全のため死去。

 大阪府出身。関西大から1958年、巨人入団。関西の大学球界を代表する三塁手だったが、同期に長嶋茂雄さんがいたため活躍の場に恵まれず、62年に西鉄に移った。プロ実働5年間で179試合に出場し、打率2割1分2厘、7本塁打、25打点の成績を残した。

▽長嶋茂雄元巨人監督のコメント
大学時代からのライバルであり友人。「東の長嶋、西の難波」と並び称されることもあった。ユニホームを脱いだあとも交流が続き、球場へよく会いにきてくれた。とても残念です。

訃報 松林宗恵さん89歳=映画監督

 松林宗恵さん89歳(まつばやし・しゅうえ<法名・釈宗恵=しゃく・そうけい>映画監督)15日、心不全のため死去。

 島根県の浄土真宗西本願寺派の寺に生まれた。僧侶の資格をとった後、日本大在学中の1942年、東宝に入社。「東京のえくぼ」(52年)で監督デビューした。戦争末期に海軍に在籍した自身の経験と仏教的な無常観を反映させた「人間魚雷回天」(55年)で高い評価を得た。他にも「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(60年)、「連合艦隊」(81年)などの戦争映画を手がけた。一方、森繁久弥さん主演の「社長」シリーズのうち23作(58~70年)を監督。また、テレビでも活躍し、「泣いてたまるか」「結婚戦争ここ一番」などのドラマを演出した。著書に「私と映画・海軍・仏さま」がある。

2009年8月15日

山城新伍さんが嚥下障害による肺炎のため死去

山城新伍

 やくざ映画で活躍し、テレビのバラエティー番組でも人気を集めた俳優の山城新伍(やましろ・しんご、本名・渡辺安治=わたなべ・やすじ)さんが12日午後3時16分、誤嚥(ごえん)性肺炎のため、東京都町田市の特別養護老人ホームで死去したことが14日、分かった。70歳。京都市出身。

 山城さんは1938年11月生まれの京都府出身。57年、東映にニューフェイス第4期生として入社。60年にはドラマ『白馬童士』に主演し、子供たちを中心に人気を博した。その後、数々の時代劇をはじめ、『不良番長』シリーズや『仁義なき戦い』シリーズなどでも存在感を放った。また『独占!男の時間』など多数のバラエティー番組にも出演。辛らつなコメントと軽妙な語り口は高い評価を得て、司会者としても活躍した。

 所属事務所オフィス・タッチの長田栄二代表取締役は「故人が各関係者の皆様、ご友人の皆様、そしてファンの皆様方に生前に賜りました御懇情に対しまして厚く御礼申し上げますと共に謹んでご報告申し上げます。そして山城との思い出を皆様方の胸にお残しいただければ本人も幸いと存じます」とコメントしている。

2009年8月 7日

大原麗子さん死去 23日にお別れの会

大原麗子

 23日午前11時から関係者の部、午後1時から一般の部が、東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で行われる。発起人は女優の森光子さん、演出家の石井ふく子さんら。喪主は弟、政光(まさみつ)氏。

発起人の女優、森光子さんのコメントは次の通り。

 麗子ちゃんのあまりにも早すぎるあの日の突然の悲報、今も信じられずにいます。

 皆様に可愛がられて、とても甘えん坊で、天真爛漫な魅力あふれる女優さんでした。

 いつも私を姉のように慕ってくれてそばにいたやさしい麗子ちゃんは、突然お日様が隠れてしまったかのように、誰にも別れを告げることもせずに旅立ってしまいました...

 その小さな胸の内に、あふれるほどの悲しみと苦しみを秘めたままで...

 病気との闘いの毎日をひとりで頑張っていたのかと思うと、とても切なくて心を痛めております。

 「少し愛して...なが~く愛して...」と麗子ちゃんの声が今も聞こえてまいります。

 みなさまと共に麗子ちゃんのお別れの会を営みたいと思いまして、石井ふく子さま、渡邊美佐さま、浅丘ルリ子さま、加藤和也さまとご一緒に発起人とさせて頂きまして、お知らせ申し上げます。

 よろしくお願いいたします。

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2009年8月 3日

水泳一筋の生涯を全うした古橋広之進さん

古橋広之進

 競泳自由形で驚異的な世界新記録をマークした元水泳選手の古橋広之進さんが2日に急逝した。80歳だった。男子四百メートル、千五百メートル自由形などで33個もの世界新記録を樹立し、米国メディアから「フジヤマのトビウオ」と称賛された古橋さんは、戦後の復興のシンボルとして、国民を勇気づけた。現役引退後も日本オリンピック委員会(JOC)会長などを務め、日本スポーツ界の土台を築いた。

 戦後の復興期、日本は戦争責任を追及され、五輪に参加できなかった。1948年のロンドン五輪。五輪の競泳決勝と同じ日程で開催された日本選手権で、古橋さんは四百メートル自由形で4分33秒4、千五百メートル自由形で18分37秒0をマーク。ロンドン五輪優勝者や当時の世界記録をも上回る活躍に、多くの国民は胸のすく思いだった。

 国際水泳連盟が日本の復帰を認め、49年の全米選手権に招待された古橋さんは、四百メートル、八百メートル、千五百メートルと自由形3種目で世界新記録を連発。米国メディアは尊敬の意を込め「フジヤマのトビウオ」とのニックネームを贈った。

 90年から99年まではJOC会長として92年バルセロナ、96年アトランタの両五輪で日本選手団団長を担った。08年10月には五輪経験者では初の文化勲章を受章。「スポーツの社会的価値を高めたい」と願ってきただけに、喜びはひとしおだった。

 今年6月、日本水泳連盟は競泳日本代表の愛称を「トビウオジャパン」に決めたと発表した。「躍動感に満ちあふれた泳ぎで世界に羽ばたいてほしい、という願いが込められている気がする」とコメントした古橋さんの思いは、日本競泳界に引き継がれている。