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2011年8月23日

俳優の竹脇無我さんが死去

俳優の竹脇無我、東京都内の病院で21日死去、67歳。都内の自宅で倒れ、搬送先の病院で亡くなった。

1944年千葉県我孫子市生まれ。ニュース映画解説者の竹脇昌作の三男。60年高校在学中に16歳で映画「しかも彼等は行く」でデビュー。青山学院大学法学部を卒業。映画「アンコ椿は恋の花」「人生劇場」「花と龍」などに出演。TVドラマ「だいこんの花」ほか「おやじのヒゲ」「姿三四郎」「大岡越前」「元禄太平記」「岸辺のアルバム」などに出演した。

2011年8月17日

読売新聞G本社社主の正力亨氏が死去

読売新聞グループ本社社主で読売ジャイアンツ名誉オーナーの正力亨、肺血症のため東京都内の病院で15日死去、92歳。

1918年東京生まれ。先代社主の正力松太郎の長男。42年慶応大学経済学部卒業。王子製紙に入社したのち、43年海軍経理学校卒業。海軍主計大尉で終戦。

56年読売新聞社に入社。よみうりランド取締役をへて、64年読売ジャイアンツオーナーに就任。68年日本テレビ放送網代表取締役副社長。70年読売新聞社社主、日本テレビ放送網取締役に就任。02年読売新聞グループ本社社主。

2011年8月13日

「男と女のお話」日吉ミミさん死去

日吉ミミ

歌手の日吉ミミ(本名:黒岩和子)、膵臓癌のため10日死去、64歳。

1947年埼玉県浦和市(現:さいたま市)生まれ。67年池和子の名でシングル「涙の艶歌船」をリリースし歌手デビュー。 ヒットに恵まれず、69年日吉ミミに改名し「おじさまとデート」 で再デビュー。70年「男と女のお話」が大ヒットし、NHK紅白歌合戦に初出場。その後「男と女の数え唄」「ひとの一生かくれんぼ」などがヒットする。78年TVドラマ「ムー一族」の劇中歌「世迷い言」が話題となる。

80年代TV番組「オレたちひょうきん族」に山本リンダ、安倍律子と「ごっくん娘」でレギュラー出演した。

2011年8月10日

歌手、俳優のジョー山中氏死去

ジョー山中

ロック歌手で俳優のジョー山中(本名:山中明)、肺癌のため神奈川県横須賀市の病院で7日死去、64歳。10年3月に肺癌を公表し、闘病中だった。

1946年横浜市生まれ。ジャマイカ人と日本人のハーフ。養護施設で育ち、中学卒業後、自動車の修理工場に勤務。62年から3年間金平ジム(協栄ジム)でボクシングに打ち込む。

63年映画「自動車泥棒」で安岡力也らと共演。65年GSグループ「4・9・1(フォー・ナイン・エース)」を結成し、ボーカルを担当。70年内田裕也に誘われボーカルとしてロックバンド「フラワー・トラベリン・バンド」結成に参加。同年アルバム「anywhere」でデビュー。73年バンド解散。以後ソロ活動に転じる。 77年映画「人間の証明」に出演、主題歌「人間の証明のテーマ」を歌いヒットする。79年映画「戦国自衛隊」サウンドトラック制作に参加。80年映画「戒厳令の夜」で音楽監督を務める。

89年映画「座頭市」、90年ハリウッド映画「オリテリア・モーティブス」などに出演。

 放送作家や司会者の前田武彦さん死去

前田武彦

放送作家、司会者でタレントの前田武彦、肺炎のため東京都内の病院で5日死去、82歳。

1929年東京都生まれ。戦時中、海軍飛行予科練習生となる。49年鎌倉アカデミア演劇科に入学。同科卒業後、立教大学経済学部経営学科に入学するが中退。 53年NHKの放送作家となる。TV放送開始当初から放送作家として活動。53年NHK TV 放送開始時に「こどもの時間」の脚本を手がける。その後「シャボン玉ホリデー」などの脚本構成を担当。 一方で、60年代からはタレント・司会者として「夜のヒットスタジオ」「笑点」などのTV番組に出演。「巨泉・前武ゲバゲバ90分!」などを高視聴率番組に育てた。フリートークや楽屋オチなど斬新な手法で人気を博し、マエタケの愛称で知られた。

73年参院補選で応援演説をした共産党の候補が当選し、司会を務める「夜のヒットスタジオ」で万歳をしたのが問題になった。番組を降板し、以降約10年間TV番組から姿を消す。

復帰後は俳優として映画「釣りバカ日誌」シリーズなどに出演、お天気キャスターも務めた。

2011年8月 5日

サッカー元日本代表 松田直樹が死去

サッカー元日本代表でJリーグ松本山雅FCに所属する松田直樹、長野県松本市内の病院で4日死去、34歳。

2日松本市のグラウンドで練習中に倒れ、心臓マッサージを施したが、病院搬送時はすでに心肺停止状態だった。
1976年群馬県桐生市生まれ。U-16日本代表に招集。前橋育英高校から、95年横浜マリノスに入団。98年からレギュラーに定着、3度のリーグ優勝を経験した。06年横浜F・マリノスのチームキャプテンに就任。
10年オフに横浜マリノスで戦力外となり、JFL松本山雅に移籍。J1通算385試合17得点。JFL通算15試合1得点。国際Aマッチは40試合1得点。

この間、96年アトランタ五輪、00年シドニー五輪にディフェンダーとして出場。トルシエジャパン時代はフラット3と呼ばれる3バックの右サイドを担い、02年日韓W杯でベスト16入りに貢献した。

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