大河ドラマ「武田信玄」の脚本家、田向正健氏死去
田向正健氏(たむかい・せいけん=脚本家)5日、直腸がんのため死去、73歳。
明大卒業後、松竹入社。木下恵介に誘われ、脚本家の道に。昭和62年、テレビドラマ「橋の上においでよ」で第6回向田邦子賞受賞。NHK大河ドラマ「武田信玄」(昭和63年)をはじめ、「信長 King of Zipangu」(平成4年)、「徳川慶喜」(10年)、連続テレビ小説「雲のじゅうたん」(昭和51年)、「ロマンス」(59年)などテレビドラマを中心に数多くの作品を手がけた。
田向正健氏(たむかい・せいけん=脚本家)5日、直腸がんのため死去、73歳。
明大卒業後、松竹入社。木下恵介に誘われ、脚本家の道に。昭和62年、テレビドラマ「橋の上においでよ」で第6回向田邦子賞受賞。NHK大河ドラマ「武田信玄」(昭和63年)をはじめ、「信長 King of Zipangu」(平成4年)、「徳川慶喜」(10年)、連続テレビ小説「雲のじゅうたん」(昭和51年)、「ロマンス」(59年)などテレビドラマを中心に数多くの作品を手がけた。
田向正健氏(たむかい・せいけん=脚本家)5日、直腸がんのため死去、73歳。
明大卒業後、松竹入社。木下恵介に誘われ、脚本家の道に。昭和62年、テレビドラマ「橋の上においでよ」で第6回向田邦子賞受賞。NHK大河ドラマ「武田信玄」(昭和63年)をはじめ、「信長 King of Zipangu」(平成4年)、「徳川慶喜」(10年)、連続テレビ小説「雲のじゅうたん」(昭和51年)、「ロマンス」(59年)などテレビドラマを中心に数多くの作品を手がけた。
「嵐を呼ぶ男」など娯楽作品を数多く手がけ、日活アクション路線の中心的役割を担った映画監督の井上梅次(いのうえうめつぐ)さんが、11日午後6時5分、脳出血のため亡くなった。86歳だった。
1947年慶大卒業後、新東宝に入社。52年、「恋の応援団長」で監督デビューした。55年に日活と契約。57年には石原裕次郎主演の「勝利者」「鷲と鷹」「嵐を呼ぶ男」を続けて発表、裕次郎を一躍大スターに押し上げた。
その後もメロドラマやサスペンス、時代劇など幅広い作品を手がけ、テレビドラマも精力的に演出した。香港に招かれて映画を監督したこともある。83年には、近藤真彦さん主演で「嵐を呼ぶ男」を再映画化した。
2007年公開の「ALWAYS 続・三丁目の夕日」でも、主人公たちが満員の劇場で「嵐を呼ぶ男」を見る場面が、50年代日本の世相の象徴として登場、話題になった。

小説「遠雷」などで知られ、環境保護活動や「ニュースステーション」などテレビ番組でのぼくとつとした語り口でも親しまれた作家の立松和平(たてまつ・わへい、本名横松和夫=よこまつ・かずお)さんが8日午後5時37分、多臓器不全のため東京都内の病院で死去した。62歳。栃木県宇都宮市出身。
行動する作家として自ら現場に足を運び、自然保護や環境保全を訴えた立松さん。出身地栃木のなまりが残る実直な語り口で親しまれた旅する作家が、天に旅立った。 忘年会では大好きな酒を仲間と飲んだ。正月には、今年で14年目を迎えた奈良・法隆寺での恒例の修行を行い、僧侶のアシスタントとして毎朝5時に起きるなど、元気に1週間を過ごしたばかりだった。 大阪での仕事を終え、1月20日に帰京した際に「風邪をひいた」と訴え、あまりの顔色の悪さに、美千絵さんが病院へ連れて行ったところ、そのまま入院。関係者によると、入院中に病気を併発して手術を受けたが、8日に容体が急変。妻、長女で画家の山中桃子さん、長男でライターの心平さん...最愛の家族にみとられての最期だった。
遺体と対面した関係者によると「おだやかな表情でした」という。 立松さんは早大在学中から小説を評価され、卒業後は宇都宮市役所勤務などを経て文筆業に専念。1980年、都市化する農村の若者を描いた「遠雷」で野間文芸新人賞を受け、脚光を浴びた。後年は仏教への関心を深め、「道元禅師」で泉鏡花文学賞と親鸞賞を受賞した。
小説のほかにも世界各地を旅行して著作を発表。1986年からはテレビ朝日系「ニュースステーション」での中継リポート「立松和平のこころと感動の旅」(1986年~)が人気を集め、環境問題に積極的に発言するなど、多くの分野で活躍した。
93年には雑誌連載中の小説「光の雨」の一部が、元連合赤軍幹部の坂口弘死刑囚の著書と酷似していると指摘され、「安易な形で引用してしまった」と謝罪。この盗用問題を機にテレビへの露出が減った。後に同作は全面的に改稿して発表し、高橋伴明監督の手で映画化もされた。
声優の郷里大輔(ごうりだいすけ)さんが、東京都中野区内の路上で死亡していたことが18日、分かった。家族にあてた遺書のような内容のメモを所持していたことから、中野署は自殺をしたとみて調べているという。
郷里さんは1952年生まれで、東京都江東区出身。太く迫力ある声に定評があり、21歳の1973年に、テレビアニメ『キューティーハニー』のナレーターとして登場。以後は骨太で筋肉質な男性声優として精力的に活動し『機動戦士ガンダム』のドズル・ザビ役や『機動戦士Ζガンダム』バスク・オム役、『キン肉マン』ではロビンマスクやアシュラマン役を務めた。
また、テレビ朝日系列の「ビートたけしのTVタックル」など、多くの番組のナレーションや洋画の吹き替えでも活躍していた。俳優としては、2008年公開の山田洋次監督作品『母べぇ』に出演している。
ネット上では、郷里さんの訃報に「特徴のある声で幅広い演技力を持つ素晴らしい声優さんだったのに」「個性的な声優さんがだんだん減っていく」「色々な番組で、脇役として大きな存在感を出していた郷里さん。ご冥福をお祈りします」と、その死を悼む声が多く見られた。
多くのファンが記した郷里さんへの思い出は、演じたキャラクターと同じ、もしくはそれ以上なのだろう。その早すぎる死が惜しまれてならない。
黒装束に身を包んだ独特のライブ活動で知られた歌手の浅川マキ(あさかわ・まき)さんが17日午後8時、心不全のため公演先の名古屋市内の病院で亡くなった。67歳だった。所属レコード会社などによると、同日夜、滞在していたホテルで倒れているところを発見されたという。葬儀は近親者で行う。
石川県白山市出身。高校卒業後に一度就職したものの、その後、歌手を目指して上京。1967年に「東京挽歌(ばんか)/アーメン・ジロー」を発表。68年に詩人で劇作家の故寺山修司氏が演出した東京・新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍(さそり)座」のワンマン公演が評判となり、その後はステージを主体とした音楽活動を続けた。中でも東京の池袋文芸坐ル・ピリエで毎年大みそかに開催した公演は大きな話題を呼んだ。
代表曲に「夜が明けたら」など。

田の中勇氏(たのなか・いさむ、本名・田野中勇=たのなか・いさむ=声優)13日、心筋梗塞(こうそく)のため死去、77歳。
テレビアニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の目玉おやじ役を昭和43年の第1期シリーズから一貫して担当。映画「スターウォーズエピソードI・II」ではジャー・ジャー・ビンクス役を吹き替えるなど、アニメや映画で幅広く活躍した。
東恵美子さん85歳(あずま・えみこ<本名・南恵美子=みなみ・えみこ>女優)8日、急性心不全のため死去。
東京都出身。1948年、俳優座に入団。54年に退団して、山岡久乃さんらと青年座を結成。その後は中心的なメンバーとして活躍した。舞台「写楽考」で71年度の芸術祭優秀賞、舞台「黄昏(たそがれ)」「ジャンナ」で97年度の芸術選奨文部大臣賞を受賞。テレビドラマや映画でも主に脇役として、多数の作品に出演。社会心理学者の南博さんと別居した形の「自由結婚」でも話題になった。
1990年代に全日本プロレスで活躍し、「殺人医師」のニックネームで人気を博した米国人プロレスラー、スティーブ・ウィリアムスさんが30日、咽頭(いんとう)がんのため死去した。49歳だった。米プロレス団体WWEの公式サイトが報じた。
ウィリアムスさんは83年にデビュー。86年に初来日し、新日本プロレスのリングに上がった。90年からは全日本に参戦し、バックドロップを武器に活躍。94年には故・三沢光晴さんを破り、3冠ヘビー級王座を獲得。タッグでは、故テリー・ゴディさんとのチーム「殺人魚雷」などで世界タッグ王座を8度獲得した。03年以降はIWAジャパンを主戦場としていたが、04年にがんを告白し、闘病を続けていた。

日本人として4人目のローマ・カトリック教会枢機卿、白柳誠一(しらやなぎ・せいいち)さんが30日、心筋梗塞(こうそく)のため東京都内で死去した。81歳。葬儀は1月5日午前11時、東京都文京区関口3の16の15の東京カテドラル聖マリア大聖堂。喪主は岡田武夫(おかだ・たけお)カトリック東京大司教。
東京都出身。ローマ留学を経て70年、東京大司教に就任した。82年の国連軍縮特別総会に際し、国内約43万人分の署名を集めて提出するなど積極的な社会活動を展開。94年、枢機卿に任命された。第二次世界大戦における日本教会の戦争責任を初めて公式に謝罪し、世界宗教者平和会議日本委員会の理事長を務めるなど、宗派を超えて国際社会の平和実現に尽力した。
日本人ではこれまでに5人が枢機卿に任命されているが、全員が故人となった。
ジミー 竹内氏(じみー・たけうち、本名竹内和三郎=たけうち・わさぶろう=ジャズドラマー)29日午前0時、肺炎のため東京都北区の病院で死去、79歳。東京都出身。葬儀は1月5日午前10時30分から東京都杉並区高円寺南2の2の2のコムウェルホール高円寺で。喪主は妻芳子(よしこ)さん。
戦後の日本ジャズ界の代表的なジャズドラマーの一人で、「原信夫とシャープス&フラッツ」「世良譲トリオ」などに参加したほか、自身のバンドでも活躍した。
講談界の最長老で「ヒゲの一鶴」として親しまれた講談師の田辺一鶴(たなべ・いっかく、本名・佐久間秀雄=さくま・ひでお)さんが22日午前7時、肺炎のため東京都内の病院で亡くなった。80歳。葬儀は近親者だけで行い、お別れの会を後日開く。
1954年、田辺南鶴に入門。64年に発表した新作「東京オリンピック」では、参加国名をすべて読み上げる入場行進の様子を取り入れた。これをきっかけに、時事ネタを取り入れた型破りな新作講談を相次いで送り出し、人気を得た。
笑える講談が持ち味で、テレビにも頻繁に出演。「講談大学」を開いて多くのプロ・アマを育て、芸能関係の本を扱う古書店も経営した。主な新作講談は「水木しげる物語」「イチロー物語」「高橋尚子物語」など。
最高裁判事の涌井紀夫氏が17日、肺がんのため死去した。67歳。葬儀・告別式の日時、場所などは未定。
京大法学部卒。昭和41年判事補。最高裁総務局長や福岡、大阪各高裁長官などを経て、18年10月から最高裁判事。第1小法廷所属。在外被爆者への手当て支給を認めなかった国の通達を違法とした判決や、住民基本台帳ネットワークを合憲とする判決などで裁判長を務めた。
最高裁によると、最高裁判事が任期中に死去したのは、昭和63年に亡くなった外交官出身の高島益郎氏以来で8人目。

「高校三年生」(舟木一夫)、「高原列車は行く」(岡本敦郎)などで知られる作詞家の丘灯至夫(おか・としお、本名・西山安吉)さんが24日午前4時2分、腎不全のため都内の病院で死去した。92歳だった。葬儀・告別式は近親者で行い、後日、お別れの会を開く予定。喪主は妻ノブヨさん。
1937年に作詞家としてデビュー。1949年に日本コロムビア専属の作詞家となり、「高校三年生」で1963年の日本レコード大賞作詞賞を受賞。翌年も交通安全の歌「童謡・ワン・ツー・スリー・ゴー」で同童謡賞を受賞した。
また「ハクション大魔王のうた」(1969年)、「みなしごハッチ」(1970年)などアニメのテーマソングや童謡「猫ふんじゃった」など1200曲以上の作詞を手掛けた。1988年に勲四等瑞宝章を受章。日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員、日本作詞作曲家協会理事を務めた。
■舟木一夫からの追悼コメント
「高校三年生」の生みの親が相ついで亡くなられてドラ息子だけが残っちゃいました。
青春時代、丘・遠藤両先生にたくさんのヒット曲をいただいて育ちましたから、何だか自分の育ての親を失ったような気持ちです。
この先も丘先生の作品群を大切に歌い続けていきたいと思います。今日もコンサートですが、少しつらくなりそうです。

元宝塚歌劇団花組のトップスターで、91年の退団後は女優として活躍した大浦みずき(おおうら・みずき、本名阪田なつめ=さかた・なつめ)さんが肺がんのため14日午前7時、都内の病院で死去した。53歳。東京都出身。
女優のほか歌手、エッセイストとしても幅広く活躍した大浦さんが約1年に及ぶ闘病の末、静かに息を引き取った。
関係者によれば、大浦さんは1974年の宝塚入団前から心臓疾患を抱え、体のケアには人一倍気を使っていた。退団後も無理はせずに活動を続けてきたが、昨年暮れに体調を崩し、検査のため入院。肺を覆う膜の間に水がたまり炎症が起きる胸膜炎と診断された。
このため、出演を予定していたミュージカル「スーザンを探して」(1~3月、東京・日比谷シアタークリエ)、舞台「この森で、天使はバスを降りた」(5月、日比谷シアタークリエ)を降板。治療と療養に専念してきた。
回復が見られたため、来年1月に赤坂レッドシアターで公演予定のダンスシアターGIGEI-TEN3「なつめの夜の夢」に声の出演も決めていたが、先月末から症状が悪化。肺がんも見つかりこれもかなわぬ夢となった。
大浦さんは74年に「虞美人」で初舞台。翌年、雪組に配属され、79年の星組組み替えを経て、83年に花組に移った。「宝塚のフレッド・アステア」と称されるほどのダンスの名手として知られた。87年には稽古中にひざの半月板を損傷して半年ほどの休演を余儀なくされたが、懸命のリハビリで復帰。88年から91年の退団までトップを務めた。
宝塚ファンの間では今でもカリスマ的存在。闘病の末の悲報にファンの悲しみも深い。
大浦 みずき(おおうら・みずき) 本名・阪田なつめ。1956年(昭31)8月29日、東京都出身。父は童謡「サッちゃん」の作詞家で芥川賞作家の故阪田寛夫さん。芸名は父親の友人で作家の庄野潤三氏が命名した。88年宝塚大劇場「キス・ミー・ケイト」でトップとなり、91年「ヴェネチアの紋章」を最後に退団した。主な著書に「夢・宝塚」「なつめでごじゃいます!」などがある。

森繁さんが「知床旅情」を作詞作曲してから半世紀。この曲が全国的に大ヒットし、知床の魅力が全国に知れ渡った後も、折に触れて北海道との親交を深めてきたとあって、道内のゆかりの人々はその死を惜しみつつ、口々に感謝の言葉を述べた。
森繁さんが「知床旅情」を作ったのは1960年。映画「地の涯(はて)に生きるもの」の撮影で訪れた知床で、ロケに協力した地域住民と仲が良くなり、撮影最終日に感謝の気持ちを込めて一晩で仕上げたものが原曲になった。その後、加藤登紀子さんの歌で大ヒットし、知床ブームがわき起こった。
ロケの時に羅臼村(当時)の職員として受け入れを担当した羅臼町元助役の志賀謙治さん(85)は、「森繁さんはお酒が好きで、羅臼にあった14~15軒の店をほとんど飲み歩いた。旅館に戻る頃には国後の方が明るくなっていて、その体験が知床旅情の『白夜は明ける』という歌詞につながったと聞きました」と思い出を振り返りながら「長い間ご苦労さまでした。いい歌をこの世に残してくれたことに感謝します」としみじみ語った。
このロケで森繁さんと共演したのは前斜里町長の午来昌さん(73)。当時は喜劇役者のイメージが強かった森繁さんが、頑固者の漁師役を演じる時、「撮影が始まると顔の表情、雰囲気がガラッと変わり、男の中の男の厳しい表情になった。さすが大物役者だと感心した」という。午来さんは「知床に大きな流れを作った偉人。いつも知床のことを気にかけてくれて、町長に当選したとき『善政を頼む』とメッセージをくれた。本当に素晴らしい方だった」と声を詰まらせた。
映画ロケの際に斜里町商工会長として森繁さんを案内した滝川一馬さん(故人)の長女で札幌市の溜谷真弓さん(63)は、家族ぐるみで森繁さんと親交があった。「71年に私が結婚した時、出席してくれた森繁さんがアカペラで知床旅情を歌ってくれました。張りのある歌声に、出席者全員がしみじみと聞き入ったものです。お亡くなりになり、残念でなりません」と別れを惜しんだ。
森繁さんは74年、池田町に完成した「池田ワイン城」の落成式に出席し、式典では来賓や町民約5000人とともに「知床旅情」を大合唱したこともあった。当時、池田町長だった丸谷金保さん(90)は「歌声が響き渡り、隣町で『暴動では』と騒ぎになったほど。森繁さんは『こんな田舎に、こんな城を作った池田の町づくりに感動したからギャラは要らない』と言ってくれた」と当時を懐かしんだ。
森繁さんが知床旅情を作詞作曲してから来年で50周年を迎えるため、地元では祝賀イベントも予定されていた。羅臼町の脇紀美夫町長(68)は、「記念行事を考えていただけに本当に残念。知床が世界遺産となり、今の羅臼の観光があるのは、森繁さんのお陰です。安らかにお眠り下さい」と話していた。

詩情豊かな風景画で知られる日本画家で日本芸術院会員、日展顧問の岩澤重夫(いわさわ・しげお)さんが7日、肺炎のため死去した。81歳。葬儀は12日午後0時半、京都市北区紫野宮西町34の公益社北ブライトホール。自宅は京都市右京区京北下町岩ノ上3の1。喪主は長男有径(ありみち)さん。先月、今年度の文化功労者に選ばれたばかりだった。
1927年、大分県日田市出身。京都市立美術専門学校(現京都市立芸術大)を卒業し、51年の第7回日展で初入選。54年に画塾「東丘社」に入塾、堂本印象に師事した。85年第17回日展で文部大臣賞、90年京都府文化功労賞、93年には「渓韻」で日本芸術院賞。02年勲三等瑞宝章を受章した。
東京都の歌舞伎座、京都市の京都南座などの緞帳(どんちょう)の原画も制作した。
親族によると、岩澤さんは今年9月、文化功労者内定の知らせを受けて大喜びしていたが、その後体調を崩して意識を失い、今月4日に有径さんが代理で顕彰式に出たという。

外相などを務めた元自民党衆院議員の武藤嘉文(むとう・かぶん)氏が4日午前1時47分、すい臓がんのため東京都内の病院で死去した。82歳だった。岐阜県各務原市出身。自宅は東京都目黒区青葉台3の5の6のオパス青葉台402。葬儀は6日正午から同区碑文谷4の21の10の碑文谷会館で。喪主は長男嘉行(かこう)氏。
1967年、衆院旧岐阜1区から初当選し、2005年に政界を引退するまで連続当選13回。外相のほか、農水相、通産相などを歴任。橋本内閣では総務庁長官に就任し、中央省庁再編など行政改革に尽力した。また自民党の総務会長、税調会長などの要職を務めた。同党前衆院議員の武藤容治氏は次男。
政治、社会、美術など幅広い分野で言論活動を展開した社会評論家の室伏哲郎(むろぶし・てつろう)さんが26日午前1時半、急性肺炎のため神奈川県藤沢市片瀬山5の5の4の自宅で死去した。78歳。
神奈川県生まれ。東京大学を中退後、雑誌記者・編集者に。1960年代に「構造汚職」という言葉を作り、政官が癒着して利権を生み出すシステムを批判。80年代には「一票一揆」という言葉を掲げ、選挙権を行使して政治的変革を実現しようと呼びかけた。
また、若者向けの美術雑誌を発行したり、カジノ合法化を訴える「日本カジノ学会」の理事長を務めたりした。「汚職の構造」など、多数の著書がある。

江畑謙介氏(えばた・けんすけ=軍事評論家)10日、呼吸不全のため死去、60歳。
平成3年の湾岸戦争開戦時からテレビ解説をつとめたことを契機に、的確な軍事評論で広く知られた。
上智大学在学中から軍事問題を研究し、専門誌「丸」「ジェーン年鑑」などに論文を掲載。昭和58年から英国の防衛専門誌「ジェーンズ・ディフェンス・ウイークリー」など海外専門誌の日本特派員として活躍した。政府の防衛調達適正化会議議員防衛調達審議会委員も務めた。主著に「新軍事考」など。

中川昭一元財務・金融担当相の葬儀が9日午前、自民党と中川家の合同葬として東京都港区の善福寺で営まれ中曽根康弘、小泉純一郎両元首相ら歴代首相経験者や、与野党の国会議員らが参列した。
葬儀委員長を務める自民党の谷垣禎一総裁は、中川氏の遺影を前に「痛惜の念にたえない。早くから被害者救済に尽力した拉致問題への取り組みは決して忘れてはならない大きな足跡だ」とあいさつした。中川氏の盟友だった安倍晋三元首相は「あなたから戦う政治家の姿を学んだ。保守再生に全力で取り組むことを約束する」と語りかけた。
中川氏は4日に自宅で死亡しているのが見つかった。
刀匠で人間国宝の大隅俊平(おおすみ・としひら、本名は大隅貞男=おおすみ・ただお)氏が4日、病気のため死去した。77歳だった。自宅は群馬県太田市。
大隅氏は同市出身。昭和27年に人間国宝の刀匠、富入昭平氏(故人)に師事。平安時代から鎌倉時代の古名刀を手本に、刀身に平行に刃文が走る直波(すぐは)一筋に研究を重ねた。その高い芸術性が評価され、平成9年に人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定された。同17年には旭日中綬章を受章している。
平成13年に誕生された皇太子さまの長女、愛子さまの御守り刀を制作した。
「静物」などの家族小説を通して日常の深淵(しんえん)に迫り、「第三の新人」として活躍した作家、庄野潤三(しょうの・じゅんぞう)さんが21日午前10時44分、老衰のため川崎市の自宅で死去した。88歳だった。大阪市出身。葬儀は近親者で行い、告別式は28日午後1時から川崎市多摩区南生田8の1の1の信行寺春秋苑で。喪主は妻千壽子(ちずこ)さん。
九州帝大卒。海軍に入隊し、敗戦を伊豆半島の基地で迎えた。教職や放送局勤務の傍ら小説を書き、「プールサイド小景」で1955年に芥川賞を受賞。安岡章太郎さん、吉行淳之介さんらと共に戦後派に続く「第三の新人」と呼ばれた。
初期の代表作「静物」(新潮社文学賞)で見せたように、平穏な生活の中に潜む危うさを描出する作風が評価された。その後、「夕べの雲」(読売文学賞)、「絵合せ」(野間文芸賞)、「明夫と良二」(赤い鳥文学賞、毎日出版文化賞)など、自分の家族をモデルに作品を書き続けた。
聞き書きの形で構成した「浮き燈台(とうだい)」「紺野機業場」「水の都」や、北米留学体験をつづった「ガンビア滞在記」、脳内出血後の記録「世をへだてて」など随想も多い。95年からも日常に材を取った長編シリーズを文芸誌に連載していた。
父貞一さんは帝塚山学院の創設者。兄英二さんは児童文学者。78年に日本芸術院会員。

九谷焼の人間国宝で、色絵の世界に新風を吹き込んだ陶芸家の徳田八十吉(とくだ・やそきち<本名・正彦=まさひこ>)さんが26日、間質性肺炎のため死去した。75歳。
小松市生まれ。祖父の初代八十吉に九谷焼の伝統的な上絵釉薬の調合と絵付けを、日展作家で二代目の父からは現代陶芸を学んだ。 伝統技法と創意工夫や革新性の融合は、独自の表現様式「耀彩(ようさい)などに花開いた。花や鳥の絵柄が多い九谷焼を、青、緑、黄、紫の4彩を基調に色の微妙な濃淡だけで表現。現代感覚あふれる美の世界を確立した。
1977年に日本伝統工芸展出品作「耀彩鉢」で最優秀賞の日本工芸会総裁賞を受賞した。88年に三代八十吉を襲名。97年に重要無形文化財「彩釉磁器」保持者(人間国宝)に認定された。
松林宗恵さん89歳(まつばやし・しゅうえ<法名・釈宗恵=しゃく・そうけい>映画監督)15日、心不全のため死去。
島根県の浄土真宗西本願寺派の寺に生まれた。僧侶の資格をとった後、日本大在学中の1942年、東宝に入社。「東京のえくぼ」(52年)で監督デビューした。戦争末期に海軍に在籍した自身の経験と仏教的な無常観を反映させた「人間魚雷回天」(55年)で高い評価を得た。他にも「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(60年)、「連合艦隊」(81年)などの戦争映画を手がけた。一方、森繁久弥さん主演の「社長」シリーズのうち23作(58~70年)を監督。また、テレビでも活躍し、「泣いてたまるか」「結婚戦争ここ一番」などのドラマを演出した。著書に「私と映画・海軍・仏さま」がある。
元札幌高検検事長で、退官後参院議員も務めた佐藤道夫さんが15日、病気のため死去した。76歳だった。佐藤さんの事務所によると、横浜市内の病院で亡くなったという。
昭和32年検事任官。平成7年の参院選で二院クラブから初当選、後に民主党に移り、19年に政界引退後は弁護士として活動。札幌高検検事長時代から週刊誌に連載を持ち、「発言する検事」として知られた。エッセー「検事調書の余白」など著書も多い。

「港町十三番地」「憧れのハワイ航路」など数々のヒット曲を手がけた作詞家の石本美由起(いしもと・みゆき、本名・美幸=みゆき)さんが27日午前0時50分、横浜市内の病院で心不全のため死去した。85歳。
広島県生まれ。歌謡同人誌に投稿した詩「長崎のザボン売り」が認められ、1948年に小畑実さんが歌って大ヒット。これをきっかけに作詞家としてデビューし、キングレコードの専属になった。その後、すぐにコロムビアレコードに移った。
作曲家の上原げんとさん、古賀政男さん、船村徹さん、市川昭介さんらとコンビを組み、精力的に作詞活動を展開。美空ひばりさん、こまどり姉妹、都はるみさんら、多くの歌手に楽曲を提供した。
作詞を手がけ、細川たかしさんが歌った「矢切の渡し」、五木ひろしさんが歌った「長良川艶歌」が83、84年と2年続けて日本レコード大賞を受賞した。
日本作詩家協会会長、日本音楽著作権協会理事長なども務め、カラオケ設置店からの楽曲使用料徴収などにも取り組んだ。
◇石本美由起さんの主な作品と歌手長崎のザボン売り(48年)=小畑実
憧れのハワイ航路(同)=岡晴夫
憧れの東京(51年)=藤山一郎
青春ラプソディ(52年)= 同
ひばりのマドロスさん(54年)=美空ひばり
柿の木坂の家(57年)=青木光一
港町十三番地(同)=美空ひばり
ソーラン渡り鳥(61年)=こまどり姉妹
悲しい酒(66年)=美空ひばり
人生一路(70年)= 同
哀愁の旅路(72年)=都はるみ
矢切の渡し(83年)=細川たかし
絵本の挿絵などで活躍した切り絵作家で版画家の滝平二郎(たきだいら・じろう)さんが16日午前7時22分、がんで死去した。88歳。
後日、お別れの会を開く。喪主は妻、普美子(ふみこ)さん。連絡先は東京都千代田区三崎町3の2の13の「滝平きりえ版権事務所」。
茨城県生まれ。太平洋戦争から復員後、本格的な創作活動に。児童文学者の斎藤隆介氏とともに出版した絵本「ベロ出しチョンマ」(1967年)で切り絵による挿絵を担当して脚光を浴び、その後も斎藤氏とのコンビで「モチモチの木」など名作を生み出した。70年に「花さき山」で講談社出版文化賞、74年にモービル児童文化賞を受賞。
元経済同友会代表幹事で日銀総裁在任中はゼロ金利政策や量的緩和策の導入に踏み切った速水優(はやみ・まさる)氏が16日午前、死去した。84歳。葬儀は近親者のみで行う。
速水氏は兵庫県出身。東京商科大(現一橋大)卒業後、昭和22年に日銀入行。ロンドン駐在参事、外国局長、理事などを経て56年、日商岩井(現双日)専務に転出、副社長社長、会長を歴任。財界活動も熱心で平成3年から7年まで経済同友会代表幹事を務めた。
10年、接待汚職の責任を取り辞任した松下康雄氏の後釜として日銀総裁に就任。改正日銀法の施行で独立性を獲得する一方で、デフレの深刻化と金融不安に厳しいかじ取りを迫られた。
平成11年、ゼロ金利政策を断行。しかし、翌12年には「デフレ懸念が払拭された」として政府の反対を押し切り解除した。その後景気は後退し「解除が早すぎた」と批判を浴び、13年3月、世界に前例のない量的緩和策の導入に追い込まれた。デフレ脱却への道半ばで15年に退任、後任の福井俊彦氏にバトンタッチした。

「津軽海峡・冬景色」「時の流れに身をまかせ」など、ポップスから演歌まで幅広く手がけた作曲家の三木たかし(みき・たかし、本名・渡辺匡=わたなべ・ただし)さんが11日、岡山市内の病院で死去した。64歳。
東京生まれ。1967年に作曲家デビューした。作詞家の阿久悠さんとのコンビで石川さゆりさんの「津軽海峡・冬景色」、作詞家の荒木とよひささんとのコンビでテレサ・テンさんの「時の流れに身をまかせ」「つぐない」を送り出し、大ヒットさせた。石川さんやテレサさんのほかにも、アグネス・チャンさん、西城秀樹さん、森進一さん、4月に亡くなった清水由貴子さんら、多くの歌手に曲を提供した。
70年代には阿久さんの推薦でテレビ番組「スター誕生!」の審査員になった。「李香蘭」など劇団四季の昭和三部作の作曲も担当。全国高校サッカー選手権テーマソング「ふり向くな君は美しい」、テレビアニメの主題歌「アンパンマンのマーチ」なども手がけ、多彩な作風を見せた。
妹は歌手の黛ジュンさん。05年に紫綬褒章を受章。日本作曲家協会理事長を務めていた。
近現代史に切り込む著作で知られるノンフィクション作家、上坂冬子(かみさか・ふゆこ、本名・丹羽ヨシコ)さんが14日、東京都内の病院で死去したことが分かった。78歳だった。
昭和5年、東京都に生まれた。名古屋文化学園を卒業後、勤務した自動車会社の労働争議にテーマをとった作品で昭和34年に第1回「思想の科学」新人賞を受賞。その後、戦犯、中国・台湾、北方領土、原発問題など幅広い分野で数々の作品を生んだ。きめ細かな取材と冷静な事実検証に定評があり、菊池寛賞、第9回正論大賞を受賞した。
北方領土ではロシアによる占拠の非を訴え、平成16年、四島の一つ国後(くなしり)島に本籍地を移して自ら返還運動にも参加した。正論の最後の原稿(昨年6月26日付)も、北海道沖でロシア警備艇に銃撃された日本漁船の扱いをめぐる外務省の不手際に苦言を呈するものだった。
最近では、病をおして本紙1面コラム「老いの一喝(いっかつ)」を執筆、その反骨精神に裏打ちされた歯切れのよい社会評論が注目された。3月21日付の「郷愁誘う戦時下の童謡」では「戦時中に歌われていたのを、軍国歌謡として毛ギライする人もあるが、あまりに浅はかで無分別だ。いい歌が多い」と見直しを訴えた。
また、若者の育成のため設けた「産経志塾(しじゅく)」では昨年12月、車いすで講師をつとめ、若い塾生たちを前に、生きるうえでの「志(こころざし)」の大切さを力説した。
家族とともに81~86年に手作りのヨット「エリカ号」で世界一周したことで知られる長江裕明(ながえ・ひろあき)さんが今月6日、拡張型心筋症で亡くなっていたことが17日、家族の話で分かった。60歳だった。
長江さんは昨年9月から神奈川県内の病院で闘病生活を続けていた。妻容子さん(61)は「子どもには『南の海にお骨をまいて』と話していた。覚悟していたのでは」と話していた。
「エリカ号」は81年7月に愛知県知多半島の常滑港を出港。家族3人で6万キロに及ぶ世界一周の大冒険を4年9カ月で達成した。帰国後の長江さんは、同県蒲郡市沖の三河湾で開催されている国内最大級のヨットレース「エリカカップヨットレース」にもたびたび参加していた。
容子さんによると、1月上旬以降は急速に容体が悪化。すり下ろしたリンゴしか口にできなくなっていたが、医師や看護師に囲まれて、ヨットの話を続けていたという。容子さんは「最期まで周囲の人を笑顔にしてくれた」と話していた。
生まれつき腸に神経がない難病のため、米国で06年に手術を受けた山下みらいちゃん(2)=愛知県春日井市=が13日、入院先の米・ニューヨーク州の病院で亡くなった。臓器移植手術費の募金活動などで支援してきた「山下みらいちゃんをすくう会」によると、最後は人工呼吸器などの生命維持装置を外され、両親に抱かれて息を引き取ったという。
同会の住友隆介会長によると、みらいちゃんは06年12月に米国で腸などの移植手術を受け、07年6月帰国。最近では、つかまり立ちを始めていた。
しかし昨年末に肝機能の数値が悪化し、検査のため渡米。その後、容体が急変し、1月末に緊急手術を受けたが思うように回復せず、集中治療室に入っていたという。
住友会長は「何年かすれば幼稚園に通えると信じていた。みらいちゃんをこんな形で失ったことについて、多くのボランティア、寄付をしてくれた人々に申し訳ない気持ちでいっぱいだ」と話した。