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2010年2月 6日

オリックスの小瀬浩之選手が転落死

小瀬 浩之

プロ野球オリックスは5日、春季キャンプ地の沖縄県宮古島市にある宿舎ホテル敷地内でチームの小瀬浩之外野手(24)が死亡したと発表した。宮古島市消防本部によると、同日午前11時37分ごろ、このホテルの従業員から「男性が血を流して倒れている。呼吸、意識はない」と通報があり、救急隊員が駆けつけた。転落死したとみられる。

沖縄県警は飛び降り自殺の可能性も含め転落原因を調べている。 オリックスは、この日が今月1日のキャンプイン後初めての休日。小瀬選手は前日まで、普段通り練習に励んでいた。

小瀬選手は大阪府出身。香川・尽誠学園高から近大を経て大学・社会人ドラフト3巡目で2008年にオリックスに入団し、1年目に58試合、2年目の昨季は78試合に出場した。3年目の今季はレギュラー獲得に向けて飛躍が期待されていた。

球団によると、現段階でキャンプは予定通り続ける方針。村山良雄球団本部長は「若く有望で、チームになくてはならない選手を失い、大変残念な気持ちでいっぱい」と沈痛な面持ちで語り、岡田彰布監督は「昨日まで一緒に野球をやっていたのに、こんなことは考えられない」と述べた。

2010年1月18日

日本ハム1軍投手コーチ小林繁氏が急死

小林繁

江川卓投手との交換トレードで阪神に移籍したことで知られる、巨人や阪神で投手として活躍した現日本ハム1軍投手コーチの小林繁氏(57)が17日、心不全のため亡くなった。57歳だった。

関係者によると、小林さんは17日朝、同市内の自宅で「背中が痛い」と訴え、家族が背中をさすっているうちに容体が急変。救急車で同市内の病院に運ばれたが、午前11時に亡くなった。

小林氏は1952年、鳥取県東伯郡赤碕町(現・琴浦町)出身。71年にドラフト6位で巨人に指名され社会人の全大丸を経て72年に入団。73年に1軍に初昇格すると76年、77年に18勝を挙げるなど活躍。

78年オフには「空白の1日」として知られる江川卓のドラフト騒動で、交換トレードで阪神へ移籍し、79年にはいきなり22勝を挙げ最多勝利に輝いた。83年には13勝を挙げるも現役から引退した。

引退後はテレビ、ラジオ解説者を経て97から01年までは近鉄で、07年には韓国のSKワイバーンズで、08年からは日本ハムでコーチを務めていた。通算成績は374試合に登板、139勝95敗17セーブ、防御率は3.18。最多勝利に1度、最優秀投手に2度輝いている。沢村賞、ベストナインも2度選ばれている。

2010年1月17日

巨人元寮長の武宮敏明さん死去

巨人軍OBで元寮長の武宮敏明(たけみや・としあき)さんが15日午後8時48分、東京・杏林大学病院で急性膵(すい)炎のため死去した。88歳だった。

熊本出身の武宮さんは王、堀内、原、篠塚らが鬼と恐れた伝説の寮長。47年に巨人入団し、6年間捕手として活躍。引退後の53年から2軍監督、コーチを務めるとともに寮長として若手選手を指導、87年末に勇退した。

川上哲治・元巨人監督「若手のころの王君や堀内君らは門限破りの常連で殴られたりしたが、愛情あってのことだから、父親のように慕われていた。裏で巨人のV9を支えてくれた」

ソフトバンク・王貞治会長「武宮さんには合宿生活中、寮長として厳しく鍛えられました。その厳しい指導のおかげで巨人軍魂がたたき込まれ、今の王貞治があります。感謝の言葉をささげるとともに、ご冥福をお祈りします」

巨人・原辰徳監督「『鬼寮長』が代名詞だったが、思ったより穏やかな印象でした。半年ほどで退寮することになり、「1年もたたずに退寮するのはおまえぐらいだ。でも許す」と言われたことを、鮮明に覚えています」

2010年1月 2日

「殺人医師」スティーブ・ウィリアムスさん死去

1990年代に全日本プロレスで活躍し、「殺人医師」のニックネームで人気を博した米国人プロレスラー、スティーブ・ウィリアムスさんが30日、咽頭(いんとう)がんのため死去した。49歳だった。米プロレス団体WWEの公式サイトが報じた。

ウィリアムスさんは83年にデビュー。86年に初来日し、新日本プロレスのリングに上がった。90年からは全日本に参戦し、バックドロップを武器に活躍。94年には故・三沢光晴さんを破り、3冠ヘビー級王座を獲得。タッグでは、故テリー・ゴディさんとのチーム「殺人魚雷」などで世界タッグ王座を8度獲得した。03年以降はIWAジャパンを主戦場としていたが、04年にがんを告白し、闘病を続けていた。

2009年11月 3日

三村敏之氏が死去=プロ野球元広島監督

三村敏之

プロ野球の元広島監督で楽天の編成部長を務めていた三村敏之(みむら・としゆき)氏が3日午前、仙台市の病院で死去した。61歳だった。広島県出身。

1967年、広島商から広島入り。攻守に堅実なプレーで主に2番遊撃手として活躍。75年には古葉竹識監督の下で球団初のリーグ優勝に貢献。79、80年の連続日本一など山本浩二、衣笠祥雄らとともに黄金時代を築いた。ベストナイン3度、カムバック賞1度。83年に引退するまで通算1567試合に出場し、1245安打、149本塁打、490打点、打率2割5分5厘。 2軍監督などを経て94~98年に広島監督を務め、優勝は果たせなかったが、野村謙二郎、前田智徳、江藤智ら若手を積極的に起用した。2004年にもヘッドコーチを務めた。07年12月、楽天編成部長に就任。体調を崩して09年5月から休養したが、夏ごろに復帰していた。

2009年10月24日

広島日出国さん71歳 元旭化成陸上部監督

広島日出国

1960年代を代表するマラソンランナーの一人で、監督、指導者としては宗茂・猛兄弟ら多くの名選手を育て、男女の実業団駅伝で計9度の全国制覇を果たした元旭化成陸上部監督の広島日出国(ひろしま・ひでくに)さんが23日、肺炎のため宮崎市内の病院で亡くなった。71歳。葬儀は25日正午、宮崎市錦町6の11のセレモニー宮崎メモリードホール。喪主は妻希代子(きよこ)さん。

宮崎県北郷村(現美郷町)生まれ。マラソンの日本最高記録を持っていた叔父の故・庫夫(くらお)さんの影響で中学卒業後、農業をしながら一人でトレーニングに励み、18歳の時に初出場した九州一周駅伝で三つの区間賞。スカウトされ、21歳で旭化成に入社し、65年の朝日国際(現・福岡国際)マラソンで初優勝した。

72年に現役を引退し、77年から旭化成監督。宗兄弟や児玉泰介、谷口浩美らトップ選手を育成し、全日本実業団駅伝6連覇を果たした。

88年に女子の沖電気宮崎監督に転身。96年に全日本実業団対抗女子駅伝で初優勝。97年には連覇を遂げ、99年にも頂点に立った。02年12月からは監督業を谷口浩美さんに譲り、廃部となった09年3月まで総監督を務めた。

04年、宮崎市内の自宅で脳梗塞(こうそく)で倒れ、施設で療養を続けていた。

◇数々の名選手育て...森下氏「一つの時代が終わった」  実業団駅伝で男女いずれも日本一に導き、数々の五輪選手を育てた名伯楽が逝った。熱心な指導で知られ、長年陸上界を引っ張ってきた広島日出国さんの訃報(ふほう)に、関係者から惜しむ声が相次いだ。

選手時代に薫陶を受け、監督を引き継いだ宗茂・旭化成陸上部顧問は「モントリオール、モスクワ、ロサンゼルス五輪と海外合宿を含めて本当にお世話になった。世界で戦えたのも広島さんのお陰」と感謝。「女房よりも一緒にいる時間が長かったころもある。人となりを含めていろいろなことを思い出します」と振り返った。

宗猛・同部監督は「監督というよりも兄貴という感じでした。料理が好きで、合宿の時はよく作ってもらった。バーベキューで肉を焼いてくれたり......。練習よりもそんなことが思い出される」と悲しんだ。一番の思い出は、4位入賞した84年のロサンゼルス五輪ではなく、全盛時に挑むはずだった80年のモスクワ五輪。「代表が決まった時、非常に喜んでくれた。それがボイコットで不参加になって......。苦楽をともにしました」と語った。

広島さんに熱心に誘われ旭化成に入社し、バルセロナ五輪で男子マラソンで銀メダルを獲得した森下広一・トヨタ自動車九州監督は「今陸上の世界にいるのは広島さんのお陰。一つの時代の終わりを感じる」と寂しさを隠しきれない様子。広島さんが倒れる2カ月前、インドでの世界ハーフマラソンで団長、コーチとして同行しており、「最後の遠征でご一緒させてもらったのはやっぱり巡り合わせだったんでしょう」と感慨深そうに語った。

全日本実業団対抗女子駅伝で3度の総合優勝に貢献するなど沖電気宮崎の全盛期をエースとして支えた川上優子さんは「監督と会わなければ今の自分はなかった」と声を落とした。「家族より選手と一緒にいる方が長いというくらい練習や合宿につきっきりで、愛情をそそいでくれました」と亡き恩師をしのんだ。

2009年9月27日

V9戦士・土井正三氏逝く

プロ野球、元巨人の土井正三氏が死去したことが25日、分かった。67歳だった。

愛する巨人の優勝を見届け、土井氏は他界した。1カ月前から肺炎を併発して体調を崩し、都内の病院に入院。その後、容体は一時安定し、23日に巨人が優勝した瞬間も病室のテレビで観戦していたという。自らが選手として成し遂げたV9以来となる、リーグ3連覇。後輩たちの偉業にホッとしたのか、その2日後、眠るように、この世を去った。

2007年3月に膵臓がんの手術を受けていた。その後は治療とリハビリに取り組み、同年6月には東京ドームで行われた巨人通算5000勝のイベントに参加。車いすでグラウンドに向かい、ファンの歓声を浴びた。それが公の場に姿を見せた最後となった。

この日遺体は病院から午後4時すぎに自宅へ戻った。自宅を訪れた中畑清氏は「小さくなっていた。ご苦労さまでしたということと、感謝を伝えた」と目頭を押さえた。

1965年巨人に入団し、二塁手として同年から始まったV9に貢献。「2番打者」としてONへのつなぎ役となり、通算242犠打を記録。土井氏のプレーで伝説となっているのが、1969年、阪急との日本シリーズ第4戦でのホームインだ。六回無死一、三塁で、打者・長嶋が空振りした際、一走・王がスタートを切った。阪急の捕手・岡村が二塁に送球したのを見た三走の土井氏は、本塁へ突入した。

二塁からの送球を受けた岡村にブロックされ、はじき飛ばされた時は、誰もがアウトと思った。しかしセーフの判定。これに激怒した岡村が岡田球審に暴行を働き、退場処分を受けた。ところが翌日のデイリースポーツに、土井氏がブロックされる前、岡村の足の間をかいくぐって左足で本塁を踏んでいる写真が掲載された。土井氏の走塁技術が証明されたプレーだ。

またオリックス監督時代にイチローの打撃フォームを否定し、1軍で起用しなかったのは有名な話。しかし後年になって「川上監督が、高田(現ヤクルト監督)が(巨人に)入ったときに2軍に落としたことがあったが、それは天狗(てんぐ)にならないようにするためだった。イチローに対してもそう思っていた」と語ったように土井氏ならではの育成法だった。

野球への情熱にあふれ、巨人を愛していた。94年から2年間、デイリースポーツ評論家として、厳しくも優しい目で後輩たちを見つめた土井氏。その姿は、もう見られない。

◆土井正三(どい・しょうぞう) 
1942年(昭17)6月28日、兵庫県生まれ。兵庫・育英高から立大を経て、65年に巨人入り。
68、69年にベストナインを獲得するなど、堅実な二塁守備や送りバントの名手としてV9に貢献。
78年に現役引退するまでの14年間で打率2割6分3厘、65ホーマー、425打点、135盗塁。
79年から長嶋監督の下で2年間、および86年から3年間は王監督の下で守備走塁コーチを務めた。
91年にオリックス監督に就任。
3年連続3位で93年オフに退団。
96年にはコーチとして巨人に復帰。長嶋監督の下で3年間内野守備コーチなどを務めた。
06年にはマスターズリーグ、札幌の監督も務めた。

2009年8月26日

細川隆一郎さん90歳=評論家、元毎日新聞政治部長

細川隆一郎

 細川隆一郎さん90歳(ほそかわ・りゅういちろう=政治評論家、元毎日新聞社政治部長)25日、老衰のため死去。葬儀・告別式は未定。喪主は長男隆三(りゅうぞう)さん。

1942年毎日新聞社に入社。主に政治記者の道を歩み神戸支局長、政治部長、東京本社編集局次長、中部本社編集局長などを歴任した。政治部長在職中の67年、佐藤内閣下での「黒い霧」と呼ばれた政治腐敗事件のキャンペーン報道で、日本新聞協会賞を受賞。73年に退社後は政治評論家に転身、テレビ、ラジオなど幅広く活躍し、歯に衣(きぬ)着せぬ語り口で人気を呼んだ。

2009年8月17日

難波昭二郎さん74歳=元プロ野球選手

 難波昭二郎さん74歳(なんば・しょうじろう=元プロ野球巨人、西鉄内野手)14日、心不全のため死去。

 大阪府出身。関西大から1958年、巨人入団。関西の大学球界を代表する三塁手だったが、同期に長嶋茂雄さんがいたため活躍の場に恵まれず、62年に西鉄に移った。プロ実働5年間で179試合に出場し、打率2割1分2厘、7本塁打、25打点の成績を残した。

▽長嶋茂雄元巨人監督のコメント
大学時代からのライバルであり友人。「東の長嶋、西の難波」と並び称されることもあった。ユニホームを脱いだあとも交流が続き、球場へよく会いにきてくれた。とても残念です。

2009年8月 3日

水泳一筋の生涯を全うした古橋広之進さん

古橋広之進

 競泳自由形で驚異的な世界新記録をマークした元水泳選手の古橋広之進さんが2日に急逝した。80歳だった。男子四百メートル、千五百メートル自由形などで33個もの世界新記録を樹立し、米国メディアから「フジヤマのトビウオ」と称賛された古橋さんは、戦後の復興のシンボルとして、国民を勇気づけた。現役引退後も日本オリンピック委員会(JOC)会長などを務め、日本スポーツ界の土台を築いた。

 戦後の復興期、日本は戦争責任を追及され、五輪に参加できなかった。1948年のロンドン五輪。五輪の競泳決勝と同じ日程で開催された日本選手権で、古橋さんは四百メートル自由形で4分33秒4、千五百メートル自由形で18分37秒0をマーク。ロンドン五輪優勝者や当時の世界記録をも上回る活躍に、多くの国民は胸のすく思いだった。

 国際水泳連盟が日本の復帰を認め、49年の全米選手権に招待された古橋さんは、四百メートル、八百メートル、千五百メートルと自由形3種目で世界新記録を連発。米国メディアは尊敬の意を込め「フジヤマのトビウオ」とのニックネームを贈った。

 90年から99年まではJOC会長として92年バルセロナ、96年アトランタの両五輪で日本選手団団長を担った。08年10月には五輪経験者では初の文化勲章を受章。「スポーツの社会的価値を高めたい」と願ってきただけに、喜びはひとしおだった。

 今年6月、日本水泳連盟は競泳日本代表の愛称を「トビウオジャパン」に決めたと発表した。「躍動感に満ちあふれた泳ぎで世界に羽ばたいてほしい、という願いが込められている気がする」とコメントした古橋さんの思いは、日本競泳界に引き継がれている。

2009年6月30日

日本女子マラソン界のパイオニア、永田七恵さん死去

 日本女子マラソンのパイオニア的存在で、1984年のロサンゼルス五輪代表の永田(旧姓・佐々木)七恵さんが27日に直腸がんで亡くなっていたことが29日、分かった。53歳だった。

 日体大時代まで中距離選手だった永田さんは、大学卒業後にマラソンに転向。瀬古利彦の師匠である中村清監督に指導を受け、81年のボストンマラソンで当時の日本最高となる2時間40分56秒を記録。その後、伸び悩みなどもあり、岩手での教員を辞職し、ヱスビー食品に入りして本格的に中村監督に師事した。厳しい指導もあり、83年の東京国際女子マラソンで初優勝を飾り、翌年のロス五輪に出場した。結果は19位だったが、その走り方から同時期にヒットしたテレビドラマにちなみ「おしん走法」と称された。

 五輪後の結婚を機に引退、2人の子供にも恵まれた。91年からヱスビー食品陸上部のコーチ、96年から顧問を務めた。

 ライバルだった増田明美さんは「昨年11月のシンポジウムで久しぶりに会って、気さくに話をした。戦友なので、これからも楽しくいきましょうねと話したのが最後になった。これから私たちの時代ならではのよさを互いに伝えていきたかったのに」と早すぎる死を悼んだ。

2009年6月22日

和田博実氏死去(元プロ野球西鉄ライオンズ選手)

和田博実

 1956年からの3連覇など、西鉄ライオンズ(現西武)の黄金時代を捕手として支えた和田博実さんが22日、膵臓(すいぞう)がんのため72歳で亡くなった。 

 和田さんはプロ通算276勝を挙げ、07年11月に70歳で亡くなった「鉄腕」稲尾和久さんとのコンビで、ファンに「黄金バッテリー」と親しまれた。プロ通算1104安打100本塁打で72年に現役引退。その後は西武、阪神の2軍監督なども務めた。

 西鉄時代に2年先輩だった野球評論家の豊田泰光さん(74)は「来るべき時が来てしまったか、という感じ。心の損失です」と肩を落とした。「稲尾も和田も死んでしまった。バッテリーごといなくなってしまった。何とも言えない」と大きなため息をついた。

 西武時代に和田さんから指導を受け、素質を開花させたソフトバンクの秋山幸二監督(47)は「入団した時から野球の基礎を作ってくれた方。和田さんのおかげで今の私があるようなものです。ただただ残念」とコメント。

 また和田さんが西武の2軍監督時代に「デーブ大久保」と愛称を付けて可愛がった西武の大久保博元・編成部プロ担当(42)は「心からしかってくれ、悩んでいると自宅に呼んで食事をごちそうしてくれた。昨年、打撃コーチとして選手とコミュニケーションを取れたことは、和田さんが教えてくれたこと。『和田イズム』は僕の心の中にもしっかりと受け継がれています」とのコメントを出した。

2009年6月14日

三沢さん死亡...悲劇、リング上で頭部強打

三沢光晴

 日本プロレス界の頂点に君臨する現役レスラーで、プロレス団体「ノア」の社長を務める三沢光晴さん(46)が13日午後8時45分ごろ、広島市の広島グリーンアリーナで行われた大会の試合中、相手の技を受けて頭を強打。心肺停止状態となり、広島大学病院に救急搬送されたが、広島県警によると、同10時10分に死亡が確認された。

 三沢さんは1981年、故ジャイアント馬場さんが率いた全日本プロレスでデビュー。2代目タイガーマスクとして人気を獲得し、素顔となった後もエースとして活躍。00年のノア旗揚げ後もマット界のトップを走っていただけに、衝撃は大きい。

  三沢さんはノアの広島大会のメーンで午後8時10分ごろ始まったタッグマッチに出場したが、約30分後、相手選手が背後から抱え上げて後ろに倒れ込む技「バックドロップ」をかけられ、頭を強打。意識を失い、試合はレフェリーストップとなった。 三沢さんはすぐに病院に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。広島県警は試合関係者らから事情を聴き、当時の状況を調べている。

 目撃した選手は「バックドロップをくらって何も言わなくなった。AEDをやったり、救急隊員が来ても全然リアクションがなく、ピクリともしないまま担架で運ばれた」と証言。病院で対応した団体広報は「(死亡)原因は不明。それ以上は分からない」と語った。ホテルで待機していた選手は大黒柱の訃報(ふほう)に衝撃を受けた。

 バリバリの"4番打者"を襲ったまさかのリング禍。関係者は、これまで三沢さんが長年の蓄積疲労で満身創痍(そうい)だったことを明かす。特に首の古傷は深刻で「だましだまし試合を行っていた」という。全日本時代は小橋、田上、川田と「四天王プロレス」と呼ばれる完成度の高い試合を展開。相手の危険な技をすべて受けきる高度な受け身が信条だった。1981年のデビュー以来、その疲労が蓄積していたのかもしれない。

 今年5月の日本武道館大会で制したノアのタッグリーグ決勝では、パートナーを務めた若手の潮崎豪に試合の主導権を譲っていた。三沢さんはあまり印象に残る攻防に参加しておらず、その時点から、体調が悪かった可能性も推測される。

 90年6月12日、新日本の福岡国際センター大会。バックドロップを受けた馳浩が一時、心肺停止状態に陥ったことがあったが、その後、復帰している。関係者は"奇跡"を信じたが、その思いもかなわなかった。

 ノアの広報担当者は14日未明の時点で、本紙の取材に対して「(今後の対応は)まだ分かりません」とし、14日に予定される博多大会開催について「役員会を緊急で開いている。まだ結論は出ていません」と語るにとどめた。また、ファンに対しては「10カウントゴングでみなさんに報告したい」とした。 突然、逝った、日本が誇る希代の名レスラー。あまりにも突然の衝撃だけが強く残った。

2009年4月14日

小松則幸さん死亡...滝で修行中

小松則幸

 13日午後4時半ごろ、大津市葛川坊村(かつらがわぼうむら)町の比良山系の三ノ滝(幅約2メートル、落差約20メートル)で、滝伝いにがけを下っていたプロボクサーの小松則幸さん(29)=グリーンツダボクシングクラブ所属=の姿が見えなくなったと、同行していたトレーナーらが滋賀県警大津北署に連絡した。同日午後6時25分ごろ署員や消防隊員が滝つぼの底から小松さんを引き揚げたが、死亡した。小松さんは5月に亀田大毅選手との試合を控え、滝で精神修行中だったという。

 同署によると小松さんは数日前、ボクシングの合宿のために京都市の寺に宿泊。寺から「精神修行に適した滝がある」と聞き、トレーナー兼マネジャーや知人ら4人と13日に三ノ滝に向かった。滝付近は足場が急で小松さんは1人で滝つぼ付近にたどり着いたが、その後姿が見えなくなったという。

 小松さんは大阪府寝屋川市出身。東洋太平洋フライ級王座2度獲得(5度防衛)の実績を持つ。05年には世界ボクシング評議会(WBC)フライ級のタイトル戦に挑み、同級王者、ポンサクレック・クラティンデーンジム(タイ)にTKO負けした。前田和久チーフトレーナーは「何が起こったのかとぼうぜんとしている。ジムの仲間もショックを受けている」と振り絞るように話した。

 亀田ジムの五十嵐紀行会長は「大毅に知らせたところ相当ショックを受けている様子だった」とのコメントを出した。

2009年4月 4日

美浦トレーニングセンター調教師 蛯名信広師

蛯名信広

 茨城県稲敷郡美浦(みほ)村にある日本中央競馬会(JRA)の美浦トレーニングセンターで3日午前6時35分ごろ、同トレセン所属の蛯名信広(えびな・のぶひろ)調教師(56)が管理馬に胸を蹴られ死亡した。JRAによると、記録が残っている期間では現役の調教師が調教中の事故で死亡したのは初めてのケースだという。

 春競馬のクラシックシーズンを目前に控え、中央競馬の現役調教師が競走馬に蹴られて死亡するというショッキングが事故が起こった。

 茨城県警稲敷署によると、蛯名師は美浦トレセン内の北馬場にある角馬場(コース調教に出る前の準備運動を行う馬場)で管理する3歳牡馬の障害練習に立ち会っていたという。

 地面に置いた丸太をまたがせる初期調教を行うため、馬の後ろ側に回って動くように促したが馬がちゅうちょしたため、手にしていた引き綱で叩いた。その際、馬が暴れて後ずさりして、後肢で胸部を蹴られたようだ。

 午前6時40分に出動要請を受けた救急車が現場に到着した際には、すでに心肺停止の状態だった。トレセン近くの美浦中央病院に緊急搬送されたが、意識が戻ることはなく午前9時50分に死亡が確認された。右胸部打撲による心肺停止とみられている。

 蛯名師は千葉県出身で、JRAの蛯名正義騎手は遠い親せきにあたる。騎手候補生を経て74年3月に騎手デビュー。「白い逃亡者」と称されたホワイトフォンテンで75年の毎日王冠を逃げ切るなど重賞は6勝。通算284勝を挙げた。93年に騎手を引退して調教師に転身。昨年までに153勝を挙げていたが、今年は未勝利。きょう4日の中山競馬に2頭の管理馬を送り出し、初勝利を目指していた矢先のアクシデントだった。

 ▼過去の死亡事故 JRAによると、美浦、栗東トレセン内で調教中の調教助手、厩務員の死亡事故は88年以降で11件起きているという。また地方競馬では04年6月7日、千葉県船橋競馬場の厩舎地区で函館喜弘調教師(64)が午後運動中の馬に蹴られ、外傷性心破裂のため死亡した。

2009年3月27日

遠藤幸雄氏...五輪金5銀2「体操ニッポン」の礎築いた

遠藤幸雄

体操の五輪代表として金メダル5個を獲得し、「体操ニッポン」の黄金時代を築いた遠藤幸雄氏が25日午前4時16分、食道がんのため、東京・千代田区内の病院で死去した。72歳だった。遠藤氏は60年ローマ五輪の団体総合で優勝したのを手始めに東京、メキシコの3大会で金5、銀2の計7個のメダルを獲得。引退後は日大教授、日本体操協会副会長などの立場で体操の指導、普及に努めていた。

 64年東京五輪で日本人初の個人総合を制するなど3個の金メダルを獲得。美しくシャープな演技で、60年から76年モントリオール五輪まで続く団体5連覇の礎を築いた昭和の名選手が、この世を去った。
 遠藤氏は07年10月に食道がんの手術を受け回復に向かっていたが、腹痛を訴えて昨年1月に緊急手術。同8月に再入院してからは闘病生活が続いていた。昨年11月の旭日中綬章の授章式が、最後に姿を見せた公の場となった。
 日大助手時代の60年ローマ五輪で日本初の団体総合優勝。64年東京で金3、銀1、日本選手団の旗手を務めた68年メキシコでも金1、銀1と計7つのメダルを獲得。世界選手権でも10個(金3、銀5、銅2)のメダルを手にした。
 鉄棒の「前方開脚浮腰回転倒立」は国際体操連盟(FIG)が「エンドー」と命名。生前、「頭のてっぺんから足の先までぴーんと伸びているのがきれい」と美しさを追求した演技の基礎が、04年アテネ団体金のエース冨田洋之氏(28)や08年北京団体、個人銀の内村航平(20)=日体大=らに引き継がれた。FIG・加藤沢男技術委員(63)は「遠藤さんの体操は、日本の進むべき方向を示したと思う」と振り返り、日本体操協会の二木英徳会長も「遠藤さんの作り上げた精神と誇りは永遠に生き続ける」と別れを惜しんだ。
 引退後は同協会の専務理事、副会長を歴任するなど、長きにわたり体操界をけん引。現在は日大名誉教授で、同協会の顧問を務めていた。

◆遠藤 幸雄(えんどう・ゆきお)
1937年1月18日、秋田市生まれ。中学2年で体操を始め、秋田工、東京教育大(現筑波大)を経て、日大助手時代の60年ローマ五輪から3大会で計7個のメダルを獲得。日本体操協会の専務理事、副会長、JOC理事などを歴任し、日大教授としても後進を指導。99年国際体操殿堂入り。長男・幸一氏は日本体操協会常務理事。

2009年3月25日

日本ミニマム級1位辻昌建選手

 日本ミニマム級1位辻昌建選手(30=帝拳)が24日午前6時30分、入院中の都内の病院で急性硬膜下血腫のため死去した。日本ボクシングコミッション(JBC)が発表した。辻選手は21日の同級王座決定戦(後楽園ホール)で、KO負けした後に意識を失い、救急車で病院に搬送され、開頭手術を受けていた。
 JBCによると、リング上の事故で死亡した例は52年のJBC設立後、35人目。辻選手は02年10月にプロデビューし、戦績は16戦12勝(3KO)2敗2分け。

2009年3月23日

青井達也さん 日本ラグビー協会顧問

青井達也さん76歳(あおい・たつや=日本ラグビーフットボール協会顧問、慶大ラグビー部OB会「黒黄会」元会長)22日、脳こうそくのため死去。
慶大出身で、横河電機(現横河武蔵野)などでプレー。現役時代は主にCTBとして活躍し、日本代表6キャップ。日本協会では理事、評議員、監事を歴任した。

2009年3月21日

安田伊佐夫師

G1馬メイショウドトウを育てたJRAの安田伊佐夫(やすだ・いさお)師が20日、病気のため京都大学医学部附属病院(京都市左京区)で死去した。64歳だった。
 安田伊師は44年(昭19)に宮崎県で生まれ、63年に騎手デビュー。70年にはタニノムーティエとのコンビで皐月賞とダービーの2冠を制覇。当時、ダービーポジションといわれた「1コーナーで10番手以内でないと勝てない」というジンクスを打ち破る大胆な後方待機策で差し切り勝ち。25歳の若さで周囲をあっと言わせた。通算成績は2983戦342勝。
 引退後は79年に調教師免許を取得し、翌80年に栗東トレセンで開業した。01年の宝塚記念ではメイショウドトウで宿敵テイエムオペラオーを破り、長男の康彦騎手(引退)とともに父子でG1を制覇した。現役の管理馬にも07年の東海Sを勝ち、昨年のJCダートで2着に入ったメイショウトウコンなど、多くの有力馬がいた。21日のファルコンSに出走するアンジュアイル(臨時貸し付けにより武田厩舎に転厩)も、同師が手がけた馬。通算5032戦487勝。このうち「25」の重賞勝ちがあった。
 メイショウドトウの松本好雄オーナー ドトウで僕に初めてG1を勝たせてくれた忘れられない方です。今週はスプリングSでドンタクもいましたし、これからという時に、本当に残念の一言です。

2008年8月12日

荒勢さん死去

 大相撲元関脇でタレント荒勢(あらせ、本名・荒瀬英生=ひでお)さんが11日午前5時54分、急性心不全のため、高知市内の病院で死去した。59歳だった。72年初場所初土俵で81年秋場所限りで引退。83年2月に日本相撲協会を退職し、タレントに転向した。現役時代は猛烈ながぶり寄りともみあげで人気。04年に脳梗塞(こうそく)で倒れてからは入退院を繰り返していた。
 長いもみ上げで「野武士」の異名を取った荒勢さんが、ひっそりと息を引き取った。関係者によると、荒勢さんは04年に脳梗塞で都内の病院に入院。必死のリハビリで快方に向かったが、今年4月に再び脳梗塞で倒れ、故郷の高知市内の病院に入院。同時に腎臓がんも発見されたという。現役時代に体重151キロあった巨体は、やせ細り、友人の1人は「本人も高知に戻った時から覚悟していたようです」と話した。この日未明に容体が急変。同県いの町の実家から母孝子さんが駆け付けたが、最期をみとることはできなかったという。
 荒勢さんは日大相撲部を経て花籠部屋に入門し、72年初場所で初土俵を踏んだ。右四つからの激しいがぶり寄りで番付を上げ、3役を通算11場所務めた。長いもみ上げが特徴で人気力士となり、横綱輪島の土俵入りの露払いも務めていた。81年秋場所限りで引退した後は年寄間垣を襲名したが、83年2月に日本相撲協会を退職。タレントに転身した。
 明るいキャラクターと「野武士」の風ぼうを買われ、83年の映画「陽暉楼」で俳優デビュー。86年にはテレビ朝日「トゥナイト」でふんどし姿で温泉リポーターを担当した。知名度を生かして01年7月の参院選には自由連合の比例代表候補として立候補したが、2711票しか獲得できずに惨敗。以降は表舞台に姿を見せることも少なくなった。
 豪快なイメージからウイスキーのCMに出演したこともあったが、関係者は「まったくの下戸で、タバコも吸わなかった」と話した。同じ日大出身で兄弟子だった放駒親方(元大関魁傑)は「けいこ熱心で立ち合いの馬力はすごかった。最近は付き合いもなかったが、若すぎるよね」としみじみと話した。荒勢さんは99年10月に11歳下のレストラン経営者と結婚するも既に離婚していた。