メイン

1234

2010年9月 1日

花田勝治

元大相撲横綱で元日本相撲協会理事長の花田勝治(若乃花幹士)、東京都内の病院で1日死去、82歳。

1928年青森県弘前市生まれ。46年二所ノ関部屋に入門し、秋場所初土俵。53年花籠部屋の独立とともに移籍。55年秋場所後に大関、58年初場所後に横綱に昇進した。上手投げを得意とし、横綱栃錦と「栃若時代」を築き、「土俵の鬼」と呼ばれた。優勝10回。62年夏場所前に引退。身長179cm、体重107kgで、戦後最軽量の横綱。593勝253敗70休4分。

引退後、二子山部屋を創設。二代目若乃花、隆の里の両横綱や弟の貴ノ花ら2大関を育てた。88年相撲協会理事長に就任し、2期4年務めた。定年退職後、96年相撲博物館長に辞任。

2010年8月30日

山本小鉄

元プロレスラーで新日本プロレス顧問の山本小鉄(本名:山本勝)、低酸素性脳症で28日死去、68歳。

1941年横浜市出身。横浜商業高校卒業後、東海金属工業に勤務。63年日本プロレスに入門。力道山最後の弟子となる。リングネームは豊登の命名。星野勘太郎と「ヤマハ・ブラザーズ」を結成して活躍した。72年アントニオ猪木らとともに、新日本プロレス旗揚げに参加した。79年「ヤマハ・ブラザーズ」として国際プロレスに乗り込み、IWA世界タッグ王座を獲得。「人間爆弾」の異名をとった。80年現役を引退。身長170cm、体重100kg。

その後、鬼コーチとして後進の指導に尽力、数々の名選手を生み出した。プロレス中継の解説者・レフェリーとしても活躍した。

2010年8月29日

アントン・ヘーシンク

オランダの柔道家で東京五輪の柔道無差別級金メダリストのアントン・ヘーシンク(Anthonius Geesink)、オランダ・ユトレヒトの病院で27日死去、76歳。

1934年オランダ・ユトレヒト生まれ。47年柔道を始める。55年道上伯に師事。56年東京で開催された第1回世界柔道選手権大会で3位。61年パリ開催の第3回で外国人選手として初優勝。64年東京五輪の無差別級決勝戦で神永昭夫を下して金メダルを獲得。65年リオデジャネイロ開催の第4回の優勝を最後に現役引退。現役時は身長198cm、体重120kg。

その後、石油会社経営のかたわら指導者として活動。73年全日本プロレスからプロレスラーとしてデビュー。78年ジャンボ鶴田とのUNヘビー級タイトルマッチを最後にリングを去る。

85年国際柔道連盟教育普及理事、87年国際オリンピック委員会委員を務めた。97年国際柔道連盟より十段位を授与。00年国士舘大学名誉博士に就任した。03年国際柔道連盟の殿堂入り。青色のカラー柔道着導入の発案者としても知られる。

2010年8月 7日

堤隆能

元大関大麒麟の堤隆能、膵臓癌のため4日死去、68歳。

1942年佐賀県東川副村(現:佐賀市)出身。58年二所ノ関部屋から初土俵を踏み、63年新入幕、70年大関に昇進した。74年現役引退。大関在位は25場所、通算成績は710勝 507敗 69休み。

75年二所ノ関部屋の後継者争いにからみ、内弟子を連れて分家独立を宣言。その後押尾川部屋を創設し、益荒雄(現:阿武松親方)らの幕内力士を育てた。相撲協会理事として審判部長なども歴任した。

2010年8月 5日

井上裕子

プロゴルファーで日本女子プロゴルフ協会理事の井上裕子、直腸癌のため徳島市の病院で4日死去、51歳。

1959年徳島市生まれ。徳島県立城南高校を卒業。78年プロテストに合格。 79年日本女子プロゴルフ協会入会(33期生)。87年ミズノ・オープンで初優勝。02年から日本女子プロゴルフ協会理事を務めた。

2010年7月 6日

小野学

元全日本スキー連盟ジャンプヘッドコーチの小野学、呼吸器不全のため3日死去、59歳。

1950年長野県出身。75年慶応大学を卒業し、日本楽器に入社。76年スキージャンプで全日本選手権70メートル級を制した。78年地元の北野建設へ移籍。80年現役を引退し、コーチに就任。

92年全日本ジャンプのヘッドコーチに就任。98年長野五輪で団体金メダル、船木和喜の個人ラージヒル金メダル獲得に貢献した。船木ほか、原田雅彦ら数多くの名選手を育てた。
96年北野建設の監督を務め、所属する荻原健司や上村愛子の育成にも関与した。

2010年5月24日

ラッシャー木村

元プロレスラーでプロレスリング・ノア終身名誉選手会長のラッシャー木村(本名:木村政雄)、腎不全による誤嚥性肺炎のため24日死去、67歳。

1941年北海道出身。天塩高校を卒業後、大相撲の宮城野部屋に入門し、58年3月初土俵。四股名は木ノ村、最高位は幕下20枚目。64年廃業。
日本プロレスに入門。東京プロレスから国際プロレスに移籍。国際プロレス時代は過激なデスマッチで名を上げ「金網の鬼」の異名を取り、75年IWA世界ヘビー級王座を獲得した。

国際プロレスの解散後は新日本プロレスに参戦。前田日明らと第1次UWFにも参加したが離脱。その後、全日本プロレスに移籍し、ジャイアント馬場とタッグを組み人気が高まった。マイクパフォーマンスは有名で、数多くの名文句を生み出した。試合後、観客からマイクパフォーマンスを求めるコールが起こるほどだった。

馬場没後の00年、全日本のエースだった三沢光晴が立ち上げたノアに参戦。前座試合で人気を博す。03年日本武道館大会を最後に体調不良により長期休養に入る。同年ノアの終身名誉選手会長に就任。07年ビデオレターで引退を表明。

2010年5月13日

川本幸生

元広島商業高校野球部監督の川本幸生、大腸癌のため広島市内の病院で11日死去、53歳。

1957年広島市中区生まれ。73年広島商業高校の二塁手として夏の甲子園に出場し、優勝に貢献。修道大学からリッカーに入社し、3年間プレー。85年母校・広商の監督に就任し、4年間監督を務める。この間88年の夏の甲子園で優勝し、選手と監督の両方で全国制覇を果たした。

2010年5月11日

島野修

元プロ野球投手の島野修、脳出血のため兵庫県西宮市の病院で8日死去、59歳。

1950年神奈川県出身。武相高校時代の67年・68年に夏の甲子園出場。69年巨人にドラフト1位で入団。76年阪急ブレーブスに移籍。その後在籍3年間で1軍登板はなく、78年現役を引退。
通算24試合登板、1勝4敗、防御率5.05。在籍10年、実働4年。

81-98年の17年間に渡り阪急及びオリックスのマスコット「ブレービー」「ネッピー」のスーツアクターとして活躍した。その後オリックス球団職員として勤務。04年病気療養のため退職した。

2010年5月10日

小掛照二

元陸上選手で日本オリンピック委員会名誉委員の小掛照二、東京都文京区の病院で9日死去、77歳。死因は肝不全とみられる。

1932年広島県上下町出身。広島・上下高時代から跳躍選手として活躍。早稲田大学を卒業。55年昭和製紙に入社し、56年三段跳びで16.49mの世界記録を樹立。直後のメルボルン五輪で8位入賞。60年ローマ五輪の選考で漏れ、引退。

その後は日本陸上競技連盟や日本オリンピック委員会の副会長など要職を歴任。92年バルセロナ五輪や04年アテネ五輪の女子マラソン代表選考をめぐっては物議も醸した。

1234